誰が「戦時中はゼロ戦とは言わなかった」と言ったのか・その5

【その1】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150519
【その2】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150520
【その3】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150523
【その4】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150525

【その4】でまとめと言いながらまだ続く。土曜に上野の「国立国会図書館国際子ども図書館」に行ってきました。
んで、ひとつ面白いタイトルを発見。
http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I5032228-00
堀越二郎が1950年に「私が『ゼロ』戦の設計者だ」との記事を書いてます。掲載誌は『読売評論』、1950年11(月?)号。「ゼロ」をカギカッコで括っていることに何かしら含むものを感じます。ただしこれ、本館でないと閲覧できないので、現状でタイトルを知っただけ。来週、永田町に行ってみます。(→行ってきた【その6】
とはいえ子ども図書館で収穫がなかったわけではありません。2つほど見つけましたよ、「ゼロ戦」。
まず一つは、白浜芳次郎の自伝的小説『最後の零戦』。

最後の零戦 (学研M文庫)

最後の零戦 (学研M文庫)

2000年に文庫になってますが、私が閲覧したのは昭和31年(1956年)6月の初版本(の取り込みデジタルデータ)。タイトルには読み仮名はありませんが、本編導入部のp8、「航空機もみな新鋭機が採用され、(略)艦戦は零式戦闘機五二型と新鋭化された。」という部分の「零式」に「ぜろしき」と読み仮名が振られています。

もうひとつは、これまた1956年の雑誌『航空ファン』8月号、p94からの「アメリカ側から見た零式艦上戦闘機の詳細 零戦5357号機の経歴」という記事。5357号機というのは、エンジンがオリジナルのままで飛行可能な唯一の零戦で、2013年(つまり「風立ちぬ」の年)には所沢市の航空記念公園・航空発祥記念館に来たりしてました。問題の『航空ファン』の記事は、その5357号機を収蔵する私設博物館の創設者、エドワード・T・マロニイ氏のレポートを翻訳したもの。さすがというべきか、充分な調査に基づく非常に詳細なレポートです。

その中で、名称について「これ等の戦斗機は日本のパイロット達には"ゼロ戦"として知られ、連合国側には"Zeke52"(ジーク52)として、又米国には、一般的に"Zero"(ゼロ)として知られていた」と書かれています。記事タイトルが「零戦」で読み仮名が無いことと、本文では「ゼロ戦」となっていることを合わせて考えると、誤訳・意訳等は無く「日本のパイロット達には"ゼロ戦"として知られ」は額面どおりに受け止めてよいと思われます。つまり、編集部(及び主要な読者)の意識では「零戦」はあえて読み仮名を振るまでもなく「れいせん」なので、本文では「ゼロ戦」表記にした、と。

また、まず日本人に「ゼロ戦」と呼ばれていて、連合国の公式の愛称は「Zeke」とされたけどそれはそれとして、直接対峙する米国には「Zero」として知られた……という順序もこの記事から明らかになったと言える。

それにしても、1956年にこんなレポートがまとめられたり、翌1957年には坂井三郎の手記や堀越二郎奥宮正武の著作が出版されたり(【その1】)、この時期のアメリカには一体何があったんですかね……?