誰が「戦時中はゼロ戦とは言わなかった」と言ったのか・その2

昨日のエントリの続き。
まずは「戦時中から零式艦上戦闘機は"ゼロ戦"と呼ばれていた」「戦後も遅くとも1957年には"ゼロ戦"としている雑誌記事があった」という点、さかのぼって見てみたわけですが、本題はそちらでなく「誰が『戦時中はゼロ戦とは言わなかった』と言ったのか」?

私は吉岡平の『鉄甲巨兵SOME‐LINE』2巻(asin:4829123575)こそはっきり覚えていましたが、それ以外に誰が言ったかなんて調べようがないと思ってました。

それが、あっさり見つかるもんですね。1つだけですが。

週刊朝日』1990年9月7日号、連載コラム「日本語相談」の第201回。
読者からの、

第二次大戦中は、英語の使用が禁止されていたといいますが、それではなぜ、戦闘機を「ゼロ戦」というのでしょうか。日本語の「レイ」といわなくてはいけないと思うのですが。

という質問に丸谷才一が答えています。
これがマァデタラメもいいところ。

中国侵略のとき渡洋爆撃に用いた九七式陸攻機は、皇紀二五九七年、つまり一九三七年(昭和十二年)に出来たから九七式なんです。

……ええと。渡洋爆撃に用いた陸攻機って九六式ですよね?

ところで、問題の零式艦上戦闘機は、一号機が初飛行したのは一九三九年(昭和十四年)で、これは皇紀二五九九年に当たるからどうも具合が悪いが、恐らくこれは試験飛行と認められたのでしょう。翌年夏、中国戦争に出動していますから、この皇紀二六〇〇年にちなんで零式と名づけられた、と思います。

何を言ってるんだお前は。おそらくもへったくれもない、正式名称につくのは初飛行年でなく採用年だ。念のため、ウィキペディアを参照してみましたが、九六陸攻の初飛行は1935年=皇紀2595年、九九式艦上爆撃機の初飛行は1938年=皇紀2598年、一式陸攻の初飛行は1939年=皇紀2599年。初飛行年と名称(採用年)が一致しているほうが珍しいんじゃないか? いよいよ切羽詰った時期の五式戦はやはりというか、当然というか1945年=皇紀2005年の初飛行ですが。

ええと、ツッコミどころが多過ぎて寄り道が長くなりましたが本題はこれ。

この零式艦上戦闘機の海軍での略称は零戦(れいせん)でした。ゼロセンではなかった。戦争中は、あれをゼロセンなんて呼ぶ人はいなかった。

きました! スッパリと断言してます。1925年生まれだから戦時中にもいい年で、それどころか「1945年3月、召集(学徒動員)によって山形の歩兵第32連隊に入営」した(ウィキペディア丸谷才一」による)というのに、「いなかった」と断言できてしまえるのが興味深いところ。当時の民間人(及び陸軍)が置かれていた状況が伺われます。それとマァ、なまじ「俺はその時代を生きていたんだ」という意識があると、経験的に知っていることに疑いを持ったり確認したりはしない、というあたりも興味深い。

ただしこの記事、「さすが丸谷才一、アタマが良いなァ」と感服した部分がひとつあります。「日本でゼロ戦と呼ばれていなかったのなら、なぜアメリカではZero Fighterと呼ばれていたのか?」という疑問が生じるところですが、予めそれに答えている。

……ってこれも、いずれにせよ「零戦」とは言っていたのだから、捕虜なり日本語に詳しい情報部員なりが「零 means zero,零戦 means Zero Fighter」とかナントカ翻訳した……って話にすればいいのに、丸谷は妙にひねったことを言ってます。

実を言うと、わたしは、日本軍が零戦と呼んでいるのを彼らが知ってそれを英訳したと思っていたのですが、そうではないらしい。あの戦闘機の機体には製作年号が2600と記してあった。その意味不明(彼らは皇紀なんて知らないから)の数字下二桁が強く印象に残って、それで今度はゼロ野郎と命名したのでしょう。
そのズィアロウ・ファイターを戦後、日本人は受入れて、ゼロセンとやったわけですね。

おいおい。
おいおい。
おいおい。
大事なことでもないけど3回言わずにはいられない。

いやその、機体に製作年号って記してあるものなの? 記してあるにしてもシリアルナンバーみたいなものでしょ。そこに敵軍が注目するほどデカデカと書いてあるのか? 仮に書いてあったとして「彼らは皇紀なんて知らない」っていくらなんでもバカにし過ぎだろ。ていうか、そこまでわけのわからない数字から愛称を付けるかフツー? 付けるにしても、0でなく00なんだからダブルナッツじゃないか?

この説はたぶん丸谷の独創、もとい思い込み、いやいや独自調査ではなく、誰かに吹き込まれた説なんでしょうが、それにしたって正気ならあれやこれやと疑問を抱くだろう。なんだってこう堂々と書いてるんですかね?

そのあたりはさすがに調べようがないので話を変えます。ここで思い出してほしいのは『鉄甲巨兵SOME-LINE』2巻の刊行年。1990年4月です。そしてこの記事は1990年9月7日号。しかしまさか丸谷才一富士見ファンタジア文庫を読んでいたとは思えない。つまり、1990年に全く別個に「戦時中は『零戦(れいせん)』と言った、戦後になって『ゼロ戦』になった」という説が語られていた、というわけです。

あるいは何か同じ源流があるのかもしれませんが、知識がどう流れたかではなく「なぜこの時期にそろって声高に語られたのか?」にこそ注目したい。この記事はそもそも読者から寄せられた質問だから、一般層にも「敵性語」への関心がそれなりにあったと考えられます。

んー、ひょっとしてこれ、日米貿易摩擦や「ジャパン・アズ・No.1」を背景にした反米意識の、あえて言うなら国粋思想の表出だったりしませんかね? アメリカを改めて敵国であると認識し、戦時中には言葉一つ取ってもあちらのやり方には従わなかったのだ〜と主張したい気分の表れ、だったり?

ってマァ、現状でこの2件しか把握できていないし、偶然同時期だったという可能性も否定できないんですけどね。



(追加)
「あの戦闘機の機体には製作年号が2600と記してあった」の件。「零戦 製造年」で画像検索をかけたら、機体に貼られていた銘板、機体に書かれていた形式、製造番号等の欄がヒットした。案の定というべきか「製作年号」は書かれていません。欄を設けることはあっても、実際に書くことはなかった模様。

さらに「零戦 鹵獲機」でググると、ウィキペディアの「アクタン・ゼロ」の項がヒット。そこに米軍に回収された零戦の製造番号が書かれていました。1機目は5349、2機目についての記述は無く3機目は3372、そしてアクタン・ゼロ(古賀のゼロ、アリューシャン・ゼロ)と呼ばれる鹵獲機は4593。4ケタの数字が3組あってもゼロはひとつも出てこない(笑)。

こうなるとやはり、「丸谷はなぜあんな珍説を信じ込み、しかも吹聴したのか?」のほうにこそ強い興味を抱きます。だって、仮に「ゼロせん」でなく「れいせん」だったとしても、「日本軍が零戦と呼んでいるのを彼らが知ってそれを英訳した」で十分でしょ。そしておそらく実際そのとおりのはず。やっぱりアレかな、「彼らは皇紀なんて知らないから」とアメリカ人をコケにする話を入れたかったんですかね?
 
その3につづく↓
http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150523