誰が「戦時中はゼロ戦とは言わなかった」と言ったのか・その3

【その1】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150519
【その2】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150520
 
今日はちょっと県立図書館に行って縮刷版だのマイクロフィルムだのを閲覧。マイクロフィルムリーダーを扱うのなんて何年ぶりかですが、情報だけでなく物体としてのフィルムがそこにある操作感覚とか、画面といえば画面なんだけど電子化せずにモノをただ拡大表示しているだけの表示部分とか、ハイテクだけどアナログ! という面白い機械ですなあれ。
 
閑話休題、閲覧したのはまずは朝日新聞昭和19年11月23日付。同月21日の、今でいうところの「熊本初空襲」を行ったB-29部隊を中国大陸上空で撃墜破した、という「大本営発表」による記事が1面トップとなっています。それに続いて、21日に九州上空で迎撃した戦闘機の名称は「零戦」「雷電」だと公表された、との記事。

覆面脱いだ「零戦」「雷電
 
九州西部に来襲したB29を大量に撃墜破したわが戦闘機隊の活躍を機として、この戦闘に参加した海軍新鋭戦闘機「零(れい)式戦闘機」および最新鋭戦闘機「雷電」の名称が初めて公にされた。「零式戦闘機」は荒鷲達からは「零戦(ゼロセン)」と呼び親しまれている。

確かにバッチリ「ゼロセン」と書かれていました。

ただ、併せて同日の毎日新聞を閲覧したら、これがちょっと面白い。朝日新聞と同様にB-29を撃墜破という記事が1面トップ、その中見出しに「新鋭"零戦""雷電"猛威」とあって、本文にも「わが新鋭機雷電、零式戦闘機の阿修羅の奮戦」云々とあるんですが、初めて名前が公にされた旨は一切書かれておらず、だから「ゼロセン」も出てこない。

つまり、「「零戦(ゼロセン)」と呼び親しまれている」という部分はどうやら朝日新聞の独自記事のようなんですが、逆に言えば「海軍の発表とは無関係に新聞社はゼロセンという名を把握していた」とも捉えられる。

くだんの記事はこう続きます。

大東亜戦開戦刻既にその■■な姿を現はしてゐたがその真価を発揮したのは開戦以来で、緒戦このかた太平洋、印度洋各戦域に海軍戦闘機隊の主力として無類の活躍を続けてゐることは周知の通りである。

周知されとるんかい。

どういうことですかね、これ? 海軍が公表したのはこれが初だけど、既に巷間「零式戦闘機」の名は知れ渡っていた? それとも「名前はこれまで知らなかっただろうけど、大活躍を重ねてきた海軍の主力戦闘機のことは知ってるよね」という意味?

さらに続けて引用します。

旋回性能、火力、速力の優秀は敵の各戦闘機に比較して卓越してをり、殊に第一線の敵米航空部隊の搭乗員達は零戦と戦えば必ず墜されるといふので「地獄への使者」とあだ名をつけてゐた。又敵は零戦を「ゼロ・ファイター」と呼んでゐるがこの呼称が非常に神秘的な響きがあり、底知れぬ威力と相まつて敵国民に畏怖の情を湧き起こしてゐたのである。

ここでゼロ・ファイターにも言及。敵国民に、とは大きく出たなと思いますが、マァ実際、少なくとも軍の関係者は「ゼロ・ファイター」と呼び、恐れていたのは間違いない。でもこれ、記者はどういうルートで知ったんですかね?

さて、ここまできてようやく本題、「誰が『戦時中はゼロ戦とは言わなかった』と言ったのか」です。

堀越二郎の『零戦』、角川文庫版だとp144-145にこうあります。

零戦が外国のパイロットから「ゼロ・ファイター(Zero Fighter)」とか「ジーク(Zeke)」とか呼ばれ、栄光と悲劇の歴史をたどることになろうとは、まったく想像さえしなかった。「ゼロ戦」という呼び方は、こうした外国の評判などから戦後生まれた零戦の愛称である。

なんと、堀越までこういう認識なのでした。零戦の活躍を新聞報道でしか知ることができない旨が書かれていることから、海軍との直接の接触はほとんど無かったと察せられますが、海軍はともかくとして三菱の関係者は零戦をゼロセンとは呼ばなかったことがわかります。

……パイロットの中にはゼロ戦と呼ぶ者もいて、それを伝える新聞報道もあったが広く一般には定着せず、忘れ去られた。そして戦後、本当に「ゼロ・ファイター」の逆輸入としてゼロ戦という愛称が生まれた……なんて仮説に落ち着くところですかね、この問題?
 
その4につづく↓
http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150525
 
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http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150524