朝日新聞のでっち上げ記事を発見、か?

朝日新聞のでっち上げ記事…といっても1面トップに「大本営発表」を載せていた戦時中のことだから、時代性を考慮に入れねばならんでしょう。
 
関連記事・「誰が『戦時中はゼロ戦とは言わなかった』と言ったのか」
【その1】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150519
【その2】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150520
【その3】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150523
 
例の昭和19年11月23日付、1面に「覆面脱いだ「零戦」「雷電の記事が載っていた号の2面に、それと関連した記事がありました。短いので全文引用してしまいます。

戦果に吹飛ぶ辛苦
零戦」生みの親の歓喜

零戦」は遂に覆面を脱いだ。零戦の製作に魂をこめる中島飛行機某製作所にはすでに遠藤航空本部長からの表彰状が壁間に輝いてゐるのだ。零戦の設計選任者の一人小野孝一技師補は「いよいよわが児が世に出ました。あれは性能がすばらしく優秀ですよ」と前提し当時の苦心談を語った。

三竹技師長、恩師野本熊次技師と私などが設計選任者となり寝食を忘れて設計したものです。試作を離れて生産機として送り出した当初には地上試験には良好にもかかはらず飛翔中に脚の抱き込みと発動機の■■が悪く十数回にわたりなほしました。忘れもしませんが十七年の夏の夜のことです、私と恩師が三日三晩徹夜してなほしたはずの発動機の不調の爆音に深夜の夢を破られた設計部の幹部一同は床をけって現場に行きなほしました。かうした努力の甲斐あってさきに真珠湾の緒戦に、いままた台湾沖航空戦やレイテ湾に活躍してゐるときいてわが子の武勲のやうに嬉しくてたまりません、製作に当る工員の喜びも察して下さい、わが製作所では世に出た「零戦」のために早速祝杯をあげました。

見出しに「「零戦」生みの親の歓喜」とあるから、堀越二郎かその後任に取材したのかと思いきや、いきなり中島飛行機某製作所」が出てくる。

んん?「生みの親」といっても製造工場の話か?(零戦を開発したのは三菱だが中島の工場でも大量に生産された)……と思い直すも、登場するのは「設計選任者の一人」であるところの「小野孝一技手補」。

誰!? そしてこの小野さん、「三竹技師長、恩師野本熊次技師と私などが設計選任者となり寝食を忘れて設計した」というから、やはり設計技師らしい。しかし、とりあえずでググった範囲では「小野孝一」でも、その恩師「野本熊次」の名でも何もヒットしないのだった。

ついでにウィキペで確認したら、遠藤という航空本部長は海軍にも、陸軍にもいなかった。

名前だけがナゾならば、本名公開によるリスクを避けて仮名を使った、とも解釈できるし、生産型になってからも引き込み脚だの発動機だのに不調があったというのはソレっぽい話なのですが(ただし堀越二郎の著作には出てこない)、問題は「十七年の夏の夜のこと」。その頃といえば零戦はもう第一線で活躍を重ねていて、後継機をどうしようかという時期でしょ。ホントにまだ設計技師が「三日三晩徹夜して」修理なんかやってたの?

改良型の話だとしても、発動機を初期の栄12型から栄21型に変えた32型は6月にもう生産が始まっており(ウィキペディア零式艦上戦闘機」の「各型の生産推移」を参照した)、設計技師が関わるべき部分があったとは思えない。

そもそも「いよいよわが児が世に出ました」「世に出た「零戦」のために早速祝杯をあげました」というのがうさんくさいよねぇ(苦笑)。単に名前が一般向けに公表された、というだけなんだから。それも直接関わったのは4年も前の古い飛行機だ。

色々考えたけど、最も合理的な答はやはり「この記事は一から十まででっち上げである」なのでした。