『ポンポさん』この映画に欠けているものは何か?

Twitterで投稿したネタのまとめ直しという試み。

 

公開から1年半、とうとう地上波TVで、それもNHKで放映される『映画大好きポンポさん』。私は劇場で3回観てそのうえ円盤まで買うほどお気に入りなんですが、アニオリ部分に関して色々とネガティブ評価があるのもマァよく分かる。中でもアラン君の追加については本当に賛否両論で……。ただ、賛否両論なんだけれども原作未読の人はおおむねアランに感情移入している様子。ならばこれは監督以下アニメスタッフが正しかったといえるでしょう。

 

しかし問題なのは、そのアラン君の関与を招いた『Meister』の追加撮影の件。ジーン監督は「この映画には欠けているものがある」といって、撮った分のフィルムで完成させることを放棄するわけですが、それは言い換えれば、「ポンポさんが書いた脚本(以下「原脚本」と表記)に不備があった」ということになってしまう。不動の核心であるはずの「ポンポさんの天才性・無謬性」が損なわれ、だから原作に比べると「ポンポさんに観てもらいたいから90分にまとめた」というオチまで弱くなっている。『Meister』自体、「ダルベールはリリーとの出会いで救われる」というシンプルかつ力強いメインプロットがブレブレになってしまったのではないか。

 

では、そこらへんの無理を通してでもジーンが追加したかった「この映画に欠けているもの」とは何か? ジーンはそれを「捨ててきたもの」だと言い、完成形の『Meister』では「音楽家として大成するために捨てた家庭」だと位置付けられている。ところが当のジーンの家庭の事情はというと、まるで描かれないのだ。あるのは「DEAR GENEの手紙が添えられた簡素な食事」のワンカットのみ、これも台詞で「家庭を(捨てた)」と言っているから出てきただけ。根本的に、ジーンにとって家庭は捨てるも捨てないも無いものと見える。……そう、「ジーンにとっては」だ。ではポンポさんはどうか?

 

ポンポさんがなぜ「映画の申し子」になったかといえば、両親が留守がちでおじいちゃんに育てられたから。ペーターゼンは好々爺然と描かれているが、映画を見ることについてはスパルタで、幼児虐待とさえ言っていい。だからポンポさんは「映画の申し子」でありながらも「映画に感動する」という経験は積めなかった。つまりポンポさんにも、自ら選択した訳ではないが「捨ててきた」ものがあり、満たされていないからこそ、幸福でないからこそ、創造性を発揮できているのだとジーンは気付いた。

 

そしてポンポさんが捨ててきたものだから『Meister』原脚本にはそれが……「家庭」が無かった。それこそが「この映画に欠けているもの」であり、ジーンは家庭を捨てた過去まで含めて補って完成させた、という構造になっている。こう解釈すれば、紆余曲折あって原脚本には無いストーリーになってしまったにもかかわらず、ポンポさん一人に向けて作った映画だというオチには原作以上の意味があると受け止められるのだ(実際に監督・脚本がどこまで考えてたかは知らない)。