何をZERO Fighterと呼んだのか

「誰が『戦時中はゼロ戦とは言わなかった』と言ったのか」シリーズの続き。といっても今回はマトモな調査・考察ではなく、アホウな思い付きです。
【その1】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150519
【その2】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150520
【その3】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150523
【その4】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150525
【その5】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150531
【その6】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150607
【その7】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150616
【関 連】 http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150524
先日、国会図書館で1956〜1959年の『航空情報』『航空ファン』を読んできた。本来の目的である「人間が乗る最後の戦闘機」F-104の記事以外にも色々と興味を引かれる記事があって、いずれまた余裕のある時に行ってみたいところ。
目に留まった記事のひとつが、『航空ファン』1954年8月号掲載、「米国から見た日本機」(多賀谷吉夫)。アメリカ陸軍の航空雑誌"Air Force"1944年9月号の記事を引いてこう書きます。

奇妙な、しかし多彩なコードネームが、日本機に対して考えられたのは、戦争の初期、南西太平洋方面の戦線に始まる。その当時、米軍は日本の戦闘機であれば「ゼロ」と呼び爆撃機であれば「三菱」といつて識別していた。

それではさすがに不便だし、情報として不正確だからZEKE等のニックネームを付けるようになった云々というのが記事の本題ですがここではそれはさておく。
つまり、太平洋戦争初期において「ゼロ」とは日本の戦闘機の総称だったわけです。そういえば私は以前にも同種の話を聞いたことがある。「ゼロ」の伝説的な活躍のうちのいくつかは、実は陸軍の一式戦"隼"だったのではないか、とか何とか。
そうであるなら、「そもそもZERO Fighterのあだ名は何に由来するのか?」という疑問に改めて行き着く。
はい、ここからアホウな思い付きです。ひょっとして……。
ZERO Fighterって、日の丸を「0」に見立てて『日本軍の戦闘機』全般の意味だったんじゃないの? このほうが、アメリカ軍の中で "零戦=REISEN means zero fighter" なんて翻訳の過程があったと考えるよりも自然に思える。

……うん。おそらく真面目にちょっと検証するだけで、あっさり否定できるであろう粗雑な思い付きだ。だけど、これだと色々と辻褄が合うんだよな……。
(以下、コメ欄の後で追加)
……辻褄が合うというのは、ゼロ戦以後のイメージを抜きにした場合に「Zeroは果たしてイメージの良い単語だったのか?」という疑問があるから。元々は何にもイイとこの無い、0点のイメージが第一だったのではないか?
つまり ZERO Fighterというのは元々は「極東の島国のイエローモンキーどもが作った0点戦闘機」と侮って付けた名前だったのではないかと思えてくるのです。