高崎市新町散策/忠魂碑・忠霊塔#35

今さら4月5日の旅行の話。2014年春の18きっぷ、最後の1回分を使いきれずにいたので、何の目当てもなく高崎線で新町を目指した。

新町駅には油庫(危険物貯蔵所)が現存。石油ランプを灯していた頃に油をしまっていた倉庫だ。煉瓦造なので鉄道好き以外の目も引いているのでは。

駅前にあった高崎市全図。

新町はこんなふうに飛び地となっている。これは比較的近年のことで、いわゆる「平成の大合併」の際に旧新町と周辺自治体との話がこじれてが高崎市と合併したため。

小さな町だが中山道の宿場町として重要だったらしく、「明治天皇行在所」が保存されている。

ふらふら歩いてたどり着いた神社。於菊稲荷神社。

並ぶ鳥居の先には、まるで簡易トイレのような拝殿が建つ。
まるでじゃなくて本当にトイレで、拝殿はここで左に90度曲がった先にある。

神社とくれば、やはり立っているのが「忠魂碑」。広場の向こう、かなりの大きさのものだった。

台座には「日露戦役 支那事変 大東亜戦役 戦死者 昭和三十年四月八日 ■建之」。

ただ、碑そのものは「大正十年五月建設」で、当初は日露戦争戦没者慰霊のみの碑だったとみるべきだろう。日中戦争・太平洋戦争の戦死者を合わせて祀ったのは昭和30年として、台座は昔からあったのか、それとも昭和30年に改めて建てたのか。昔からあったとしたら、建設当初はなんと書かれていたのか? 真面目に研究するとここらへん調べるのが面倒そう。

元帥陸軍大将正二位勲一等功一級子爵 川村景明書
伊藤靖 刻

台座裏面には何故かこんな階段が付いていた。上ったところで何があるわけでなし、信仰(慰霊)の形態として理由があるようにも見えない謎の階段。

取りあえず上って足もとを見下ろす。

毎度参照しているサイト「日本の町並み」も取り上げていた「群馬銀行新町支店」。しかし他に取り上げているサイトは見当たらず。



そのはす向かいにも洒落た建物。歯科か内科の医院だろうか。

その十字路から西に進むと、通り沿いに土蔵造の元商店なんてのがひょいと建っていたりする。

通り沿いでなく、少し街中に入ったところに建っていた「旅館 美好園」。今ググってみたところ、言及しているサイトはほとんど無い中にひとつだけ驚かされる記事があった。

「チャミスル日記」2008年3月18日付
金鶴泳の故郷
(略)
金鶴泳の実家です。美好園という広い旅館を父親が買い取って一家の住まいとしていました。手前に写っている、窓の破れた二階の部屋が金鶴泳が息をひきとった場所です。
(略)
引越をしてから空き家の状態がずっと続いていたそうで、失礼ながら土足で上がらせてもらいました。元は旅館だっただけにとても広いお宅で、荷物はほとんど片づけてしまったとは言うものの、父親の名前が書かれた表札、家族写真、朝鮮総連からの感謝状などが残っていました。

なんとなく撮影した建物が、作家・金鶴泳の実家だったのである。旅館としてはかなり前に廃業していたこと、金鶴泳が他界した1985年のすぐ後あたりだろう、長く「空き家の状態」であることも分かった。単に美しい日本建築というだけでなく作家の実家でもあるなら、保存される可能性もあるだろう。


路上の落書き、「1 やまのてせん 2 りょうもうせん」。記憶だけで描いたにしてはかなり細かいが、図鑑を広げながら描いたとも思えない。ていうかどっちも新町を通ってないんだが……。