伊勢の五二会館と明治聖代戦役記念碑そして神都教学館

バラバラのピースが組み合わさって一つの答になる、という快感を確かに味わったのだが、他人に伝えるとなると、とにかく答から示さざるを得ないのがもどかしい。
 
そんなこんなで、明治聖代戦役記念碑の話の続き(前回は→ )。五二会館(五二会ホテル)を軸と捉えたら、建設に至る流れのひとつが見えてきた。
まず五二会館について。孫引きになるが……。

明治27年 元農商務省次官 前田正名が品評会を計画
明治32年 五ニ会館として宇治山田市に開館。第6回全国五二会大会が開催
明治33年 ホテル営業開始。附属商品陳列館は全国生産品を蒐集販売して盛況を極める
「今上陛下御結婚御奉告の御為、妃殿下(皇后陛下)と御同列にして藭宮御参拝あらせられし御時、本館を以て御旅館に充てさせ給ふ」
明治36年 電車開通後に衰微せしを以て附属商品陳列館廃業
明治42年 旅館五二会館は大日本ホテル株式会社に譲渡、大日本ホテル支店五二会ホテルとして営業した
大正3年 大日本ホテルは京都・都ホテルに売却、翌4年から支店として営業を行った
大正5年 都ホテルから五二会ホテルを宇治山田市が買収後、すぐに明治聖代戦役記念会へ売却。
ただし、会館は市において管理し、旅館の営業は都ホテルに委託して行うことにした。


・ 
『伊勢探訪記』「虎尾山 旅館五二会館と五二会商品陳列館」
http://nfc.no.coocan.jp/ise-gonikaikan.htm

リンク先の年表に、一件重要なトピックを補った。今上陛下つまり大正天皇が皇太子だった頃、妃殿下と共に伊勢神宮への結婚の奉告に訪れたさいに、この五ニ会館に泊まったのだ。そのため「3階の一室は今猶御座所として鄭重に保存せられたり」という。
 
そして私が注目するのが、最後の大正5年だ。宇治山田市は買い取ってすぐ「明治聖代戦役記念会」なる団体に売却するも、その後も引き続き管理を行う。それで旅館の営業はというと、売却元の都ホテルが引き続いて行ったという。

つまり、外部から見ればずっと都ホテルのまま、所有権だけは明治聖代戦役記念会にあり、市が裏方として動いていた……という形。何故にこんな複雑な扱いにしたのか?
答を解くカギは、これだ!

……見えない。前回も取り上げた、大正7年の「明治聖代戦役記念碑建設会に関する件」(三重)の一部である。写真は真っ黒で輪郭程度しか見えないがキャプションは読める。
https://www.digital.archives.go.jp/

明治聖代戦役記念碑建設会会員に限り特に拝観を許さるべき会館階上御座所

今上天皇陛下の御座所たりし由緒を有する
明治聖代戦役記念碑建設会会員接待所正面玄関
 
「会員に限り特に拝観を許さるべき」、つまり所有者である記念会(→記念碑建設会)の会員集め、記念碑建設の資金集めのエサとして五二会館は使われたというわけだ。こうなると、大正5年の「すぐに〜売却」の「すぐ」がどれくらいかは不明だが、市はごくごく初期から記念碑建設計画に深く関わっていたと見るのが自然だろう。

これも「明治聖代戦役記念碑建設会趣意書」の、「本会役員」。理事長こそ予備陸軍砲兵少佐・緑川敬之助だが、名誉理事には宇治山田市長や前市長が、理事には市会議長、前議長、市参事会員らが名を連ねており、市が会の設立を主導したと推測される。
 
……都ホテルが五二会館売却の意向を示したため、市はとりあえず買い取った。そして、いずれこれと絡めた明治天皇関連の施設を虎尾山に作ろうと目論み、とりあえず会を設立して、その会に五二会館を売却した(全くの憶測だが、売却といっても事実上は譲渡だったのではないか)。何をやるか決めないままの会の設立だったから、大正5年の時点では「記念碑建設会」でなく「明治聖代戦役記念会」と称した。その後も計画が固まるまでは都ホテルに任せて旅館営業を継続。そして大正7年に計画が固まると、五二会館の御座所拝観を会員特典に設定して会員を募った……。
 
というのが私の推測である。
 
ところがどうも思うように資金が集まらなかったらしい。会の本格始動が大正7年(1918年)として、明治聖代戦役記念碑の完成は昭和3年(1928年)と10年がかり。完成した塔もまず立派なものだが、趣意書の設計図と比べるとかなり規模を小さくしている。
 
そして五二会館はというと、前回ちょろっと触れたとおり昭和13年頃には廃屋と化していた。『産業報国教書』(1941年)の「虎尾山の聖地」には、神都教学館所有となる以前のことも書かれている。

神都教学館は、故前田正名翁によって建設された有名な五二館の旧館で、或る富豪の手にあって廃屋とされていたものを、当時横浜市外の純真学園に在って、純美と純愛と純真の道場兼時給経済農園経営の傍ら、学的精進に勉しまれていた先生が目をつけ、之を買い取られたもので、建物は久しく荒れたままになっていたが、そこには尊い歴史をそのままに存していた。
畏くも、大正天皇神都行幸の際の行在所として、その玉座は、今も神都教学館大道場の式壇として仰慕されている。

「或る富豪」が記念碑建設会の関係者か否かは不明だが、いずれにせよ会の所有ではなくなっていた。会員接待所として使われておらず、それどころか「久しく荒れたままになっていた」という。

そうして五二会館は岡本利吉の手に渡った。『神都教学館趣意書』(昭和14年)のウラ表紙にその当時の外観写真が載っている。


「聖き英霊が数々籠る神都の名跡・旧五二会館に於て」云々と、写真と併せて重要なアピールポイントにしている。
 
さらに戦後になると、再びブログ『いにしえの伊勢』2008年7月22日付「聞き書き 虎尾山の記憶1」(http://inishienoise.blog.so-net.ne.jp/2008-07-22)を参照するが、

・戦後の一時期は自由に出入りができ、柔道場として使われていた。管理人はいなかった。
・戦後は戦災で家を失った人の避難所として使われていた。2階までは人々が使用していたが、3階は立ち入ることができなかった。
 →大正天皇が泊まった「御座所」があったからかもしれません。

とのこと。神都教学館(戦後に礼道教学民生館)の代表、岡本利吉は戦後も虎尾山にとどまっていたようだが、五二館を所有したまま避難所として開放したのか、それともこの時期手放していたかはわからない。
 
年表にまとめなおすとこんな感じだ。

大正5年 都ホテルから五二会ホテルを宇治山田市が買収後、すぐに明治聖代戦役記念会へ売却。
ただし、会館は市において管理し、旅館の営業は都ホテルに委託して行うことにした。
大正7年 明治聖代戦役記念碑建設会趣意書に「会員接待所」と掲載
昭和3年 明治聖代戦役記念碑完成
昭和13年 或る富豪が岡本利吉に売却
昭和14年 神都教学館として運用開始
昭和20年 避難所として使用される 

あまり関係の無い話だが『三国志演義』の伝国の玉璽を連想してしまった。神秘性をもって人々に切り札のように扱われるが、実際のところ何の影響も与えないままコロコロと所有者が変わっていくあたりで。