忠魂碑・忠霊塔(番外編)「明治聖代戦役記念碑」

国立公文書館デジタルアーカイブで「明治聖代戦役記念碑建設会に関する件」(三重)閲覧。
https://www.digital.archives.go.jp/
半分の月がのぼる空」の聖地、伊勢市の虎尾山に立つ碑のことだ。もう1年半も前か、痛ましい事件の現場にもなった。
http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150930
私はこれを忠魂碑の類だろうと思っていたが、建設趣旨書を読むと、なんと戦死者慰霊には全く触れていない。……皇祖大神宮=伊勢神宮があるこの地に、明治天皇の御治績御成徳と二大戦役の武勲を永遠不朽に伝える記念碑……との趣旨。日清・日露戦争に加えて大正3年(1914年)の日独戦争(チンタオ戦)まで「明治天皇御偉業ノ効果ニ外ナラザルベシ」としているのも目を引く。


設計図も掲載されている。完成時には金鵄を頂いていたというが計画段階では……天照大神? 絵が見づらいがどうやら右手に掲げたものは発光させる計画だったようだ。

ブログ『いにしえの伊勢』2008年7月22日付「聞き書き 虎尾山の記憶1」(http://inishienoise.blog.so-net.ne.jp/2008-07-22)によると、「記念碑の上部のマークの中央は赤く光っていた」「発電機は塔(記念碑)の中の下部に置いてあり、電線は、内部のはしごにそって設置されていた」とのこと、形は変われど電飾は施されたわけだ。天照大神のイメージを継いで、太陽らしく赤く光らせたのだろう。半分の月ならぬ丸い太陽が輝いていたのだ。

趣旨書にはまた「明治大功臣諸公ノ銅像」を配する、とあり、設計図にも「銅像台」が描かれている。これは実現しなかったわけだが、誰をどういう順で並べるつもりだったのかと興味が持たれる。
 
他方、私の興味のメインである「戦後どの段階で銘を剥がされ、打ち捨てられたか」はどうも判然としない。

(『写真集 明治大正昭和 伊勢二見小俣』国書刊行会
昭和20年に破却というから、やはりGHQ指令「国家神道神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」いわゆる「神道指令」によるものだろうが、これは昭和20年12月15日付だから昭和20年破却というのが本当ならあまりに対処が速いという印象。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317996.htm
 
また、塔との直接の関係は無いが虎尾山には「神都教學館」(戦後に礼道教学民生館→民生館)という学校(半ば宗教的な道場?)があった。現地では有名だったらしい「五二会ホテル」の旧館(どうでもいいが「舊館」はさすがに読めず手こずった)が廃屋となっていたのを、岡本利吉という割と有名だった(らしい)学者が買い取って開設したとのこと。岡本利吉は一名岡本普意識といい、人工言語ボアーボムで有名らしいがこれまた不勉強でよくわからない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%88%A9%E5%90%89
 
1941年の書籍『産業報国教書』には「虎尾山の聖地」と題して岡本利吉と神都教學館を取り上げた一節がある。そこでは塔には一切触れていないが、国家神道の時代の伊勢そして虎尾山の特異性がうかがわれた。伊勢ではほかに、1933年に「大神都聖地計画」が構想されている。虎尾山の塔もまた、戦死者慰霊とは別の領域で考えるべきものなのだろう。



というわけで、ちょっと現地に出かけてみます。