続・首の無い石仏

仏教寺院は最近少なく、神社よりずっと派手で、ふつう石灯籠やさまざまな碑が境内にあるものの、古ぼけたり朽ちたり塗料が木部から剥げ落ちたりしており、熱心な「任意の寄付」で補われることもなく、どう見ても「国教制廃止」の様相を示しています。この地方でもっとも目立つ特徴のひとつが宗教建造物と宗教的象徴の衰退した姿です。仏像はあっても、鼻がなくて苔で覆われたものがあちこちに見られ、ピンクの布切れを首に巻き、雑草のなかで倒れている仏像はいたるところにあります。一日旅するあいだに何百体も見かけます。
 
講談社学術文庫イザベラ・バード日本紀行(上)」p222。
「この地方」は会津

イザベラ・バードの日本紀行 (上) (講談社学術文庫 1871)

イザベラ・バードの日本紀行 (上) (講談社学術文庫 1871)

昨日のエントリ(7月29日付)の首無し仏像の件、「七輿山古墳 仏像」でググってあっさり判明。

これは明治期の急激な改革の下、行なわれた「廃仏毀釈」の爪あと。
時の明治政府は神道を中心とした新しい国造りを促進するため、「神仏分離令」を発布し、全国各地でこのように寺院や仏像が破壊されたのである。この七輿山古墳の羅漢たちも一体一体全ての首が切断され、まとめて古墳の堀の中に投げ捨てられたという。石像そのものを全て破壊してしまうのではなく、あえて首を切断した体部を残すことによって、おそらく人々への見せしめにしたのであろう。新しい世を作るためという大義名分はあったのだろうが、とても悲しい出来事である。
(略)
もしかするとこの墳丘自体を羅漢たちが釈迦の説法を聞きに集まったという「霊鷲山」に見立てて、墳丘全体に配置されていたのかもしれない。(ちなみに寄居町少林寺の裏山にも五百羅漢があり、そちらもこうした見立てが感じられる)
霊鷲山」に見立てていた根拠として、墳丘上には釈迦三尊の石仏もある。勿論こちらも首のない無惨な姿・・・。頭を失った主人を乗せ、象もとってもせつなそうな表情・・・。
 
(【大仏専門家 大仏ライター】神社仏閣ライター・坂原弘康
公式ブログ「坂原流」
2008年5月1日(木)付『七輿山古墳と五百羅漢(群馬県藤岡市)』より)
http://sakahara.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post-5900.html

冒頭に引用した『イザペラ・バードの日本紀行』での廃仏毀釈の描写が印象深く、七輿山古墳でも「ひょっとしてこれも?」と連想したものの、まさか140年余も経ってなおこうして傷跡が残っているとは思わなかった。
それと、廃仏毀釈にしてもやり過ぎじゃないか? という疑問がある。「石仏を壊すのであれば蹴倒して放置すればよくて、穴に放り込むのは重くて大変である。廃仏毀釈で首なしになるという説に改めて疑問が湧いた」……っと、これは私の言葉ではないが、だいたいこんな感じだ。

「首なし石仏」考――首なし羅漢像は廃仏毀釈が主要因か――
杉浦正和
http://www.ka.shibaura-it.ac.jp/shakaika/12%20kubinashi-sekubutu.pdf

ただ、廃仏毀釈でなかったとして、じゃあ「江戸時代の寺と農民の紛争で農民が破壊行為をして」ここまでやるか? とか、どちらにしても破壊されたのち現在に至るまで全く修復されていないのはどういうことだ? などの疑問も残る。
http://homepage3.nifty.com/kojikino-angou/tra_12.html
 
あ、それと「首の無い石仏が3体並んで」なんていかにも学のないことを書いてしまったが、これは「釈迦三尊像」のひとつのパターンだそうで、中央は釈迦如来、象に座っているのは普賢菩薩、獅子に座っているのは文殊菩薩とのこと。
http://karinin.e-tera.jp/jumotu/j-honzon.html
http://hagi.jp/~y-kaji/modules/xfsection/article.php?articleid=106
http://www.ryu-sho.co.jp/item/detail.php?id_item=1851