前橋/忠魂碑・忠霊塔#47

先週の日曜日、13日。何となく前橋に行った。

知らない町を行くあて無くさまよう。あてが無いからどこに行き着くこともできない。ただ歩き回るだけの時間――たまにはこんな日曜も悪くない。翌日朝イチ締め切りの仕事のことなど、忘れてしまったよ。
……いやその、締め切りに追われてどうにもならなくなって、ここではないどこかを目指して逃げ出しただけなんですけどね(結局、帰宅後2時半までかけてなんとかしました)。

いやホントに「どこにも行き着けない」状態で、割と無理矢理テンション上げて写真を撮っていった。

そのひとつがこれ、「前橋市立女子高等学校 発祥之地」の碑。そう言われればなるほど校門っぽい場所に「三河町一丁目住民広場 月極駐車場」とも掲げてあった。ふむふむ学校の広い敷地は確かに駐車場向きだな、と思っていると……。

校門(だったと思われるもの)の内側は宅地造成・分譲されていて、既に広場でも駐車場でも無かった。造成が進めばいずれ校庭の痕跡は失われ、校門の痕跡さえも失われ、「なんだか変な道筋」だけになるのだろう。そう思うと、ここに「前橋市立女子高等学校 発祥之地」の碑が建っている意味の大きさを思い知る。

実際の来訪順とは前後するが、これは「前橋カトリック教会」。昭和7年築で鉄筋コンクリート造なのだが、構造がどうあれやはり宗教建築というのは独特で面白い。

マジで行くあて無くさまよっていると、大マジでどこにも行き着けないので、とりあえず神社を目指すことにする。

そして堅町の神明宮に行き着く。ここでやっと本題、「忠魂碑・忠霊塔」のバリエーションというべき(ワタクシ的分類)「平和克復記念碑」にたどり着いた。
背面を見ると、大正八年というから(第一次)世界大戦の終結を記念したもので、ちょっと珍しい。
http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20140724
花巻で同様の碑を見たことがあるが、こちらの面白みは「元帥陸軍大将子爵川村景明書」という点。書を提供しただけとはいえ、はっきりと軍人が関係しているのである。

ただ、ウィキペディア川村景明 ”などを読む限り、やはり第一次世界大戦とも前橋とも直接の関係はないようで、なぜここにこの平和克復記念碑が立っているか、イマイチ分からない。

ついでと言ってはなんだが、堅町神明宮でもうひとつ。東京圏だとこの種の築山(といっていいのか)は富士塚だが、これは「信州浅間の焼石」で築いた、という嬬恋稲荷社。浅間神社というとイコール富士信仰に変換されるが、ここでは浅間が浅間山なのだった。