佐倉・麻賀多神社の三石碑/忠魂碑・忠霊塔#48

23日は千葉県の佐倉へ。城址公園、武家屋敷近くに立つ佐倉藩鎮守・麻賀多神社(まかた・じんじゃ)の境内には戦死者慰霊・顕彰の碑が3つ並んでいた。

 

中央の最も大きな碑は「忠勇之碑」、明治三十九年十月。傍らの解説板によれば「旧佐倉藩士民の日露戦争出征者慰霊顕彰の碑」。

向かって左側は「義烈之碑」、大正二年十一月……なのに「佐倉藩士民の戊辰の役より日清戦争出征者、慰霊顕彰の碑」だという。

碑文を読むと、明治三十七八年役(=日露戦争)には忠勇之碑があるけど元治常野之乱(=戊辰戦争だろう)から明治二十七八年役(=日清戦争)には無いからこの義烈之碑を立てる、といった意味のことが彫られている。

この前後の逆転、大正2年になって(今さら)戊辰戦争日清戦争の戦死者慰霊・顕彰の碑を建てたのは何故か? そもそも日清戦争終結時に碑を建てなかったのは何故か? というあたりも興味を引くが、それ以上に注目されたのが右側の小振りな石碑。

「両士記念之碑」といい、「戊辰の役に際し幕府方に参戦した二名の記念碑」だという。言ってしまえば反政府勢力に付いた者たちの記念碑なのだ。

そういう碑自体は珍しくはない。例えば戊辰戦争最後の戦地となった函館には「碧血碑」がある。
http://gray.ap.teacup.com/unknown/366.html
ただ、「旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があった」とされ、また政府軍戦死者慰霊のために造営された招魂場……現在の護国神社からは遠く離れた場所に立っている。
http://gray.ap.teacup.com/unknown/369.html
護国神社にはもちろん、戊辰戦争の政府軍戦死者だけでなく「西南の役日清戦争から第二次世界大戦に至るまでの、戦没者の霊が祀られている」。しかし碧血碑はそこにはない。幕府軍の戦死者は、他の戦死者と同列で祀られることは無いのである。
 
そうした点を踏まえるとこの麻賀多神社の三石碑、「戊辰の役に際し幕府方に参戦した二名の記念碑」と、戊辰戦争日清戦争の碑、日露戦争の碑が並んでいるのは中々に特異なことではないか。

もっとも、「忠勇」「義烈」といかにもな顕彰の文言に対してこれは「記念碑」という落差は大きく、サイズ差以上に明確な差別化が感じられる。表面しか見られなかったこともあっていつ建てられたか確認できていないが、大正2年に建てられた「義烈之碑」が戊辰戦争の(政府軍に付いた者の)慰霊の碑であるなら、それより後と考えるのが自然だろう。