中央弘前駅にみる「懐かしさの混乱」

東北旅行の話の続き。【関連エントリはこの文字列をクリック】
今回は弘南鉄道大鰐線中央弘前駅のこと。

このうらぶれた風情に魅力を感じる人が多いのか、ざっとググるだけで多数の記事がヒットします。
曰く、
「年季の入った味わい深い中央弘前の駅舎」
 (「日本史日誌」2012年10月5日付
「レトロ駅舎好きには知られた駅で、僕もやっとお目にかかれたという感慨が」
 (「デンシャと、京都と」2011年11月5日付
「木造モルタル塗りの弘前中央駅の駅舎は昭和の駄菓子屋に入って行くみたい」
 (「まちかど逍遥」2012年1月18日付
中央弘前駅の趣ある懐かしい駅舎を見て大変感動しました。今でも昭和時代の風景が色濃く残ってるのが嬉しくなり、一度乗車しただけでしたが、近いうちに再訪したいという思いが強くなりました。」
 (「八戸鉄道・バス研究会別館ブログ」2011年11月28日付
等々。人気があるのは結構だし、確かに昭和の建築ではありますが…。

「旅のカケラ」弘南鉄道 中央弘前駅
 
「いかにも昭和という感じの面構え。本当に街と一体化していて、こんな雰囲気の駅がまだ残っていたのかとうれしくなっちゃいました」
(◆コメント欄)
「2年前のGWに私も中央弘前駅の前に立ちましたが、この昭和丸出しな駅舎に圧倒されました。」
「正に三丁目の〜っていう感じですかね。
古い駅舎がある駅はたくさんあるけど、昭和をここまで感じられる駅は少ないかなぁって思いました。」
http://tabinokakera.blog95.fc2.com/blog-entry-767.html

「昭和という感じ」「正に三丁目の〜」……うーむ、うーむ。
研究的というかマニア的な視点で記述しているサイトでも……。

『TRAVEL STATION』
>駅の写真館>東北(東北全駅)>弘南鉄道大鰐線)>中央弘前

 
駅舎を正面から見たのみでは、一見直方体のモダンな建造物に見えますが、脇に回るとスレート屋根の全面に長方形の装飾を掲示しているものであることがわかります。いわゆる「看板建築」ですが、このようなスタイルを採用している駅舎は全国的にも珍しいものです。中央弘前駅が開業したのは戦後の混乱が収束した1952年1月、この時期の弘前には擬洋風建築が盛んだったのかもしれません(未検証ですので念のため)。
http://travelstation.tk/station/tohoku/konan/owani/chuohirosaki.htm

スタイルの珍しさに着目している(というか珍しいものだとちゃんと理解している)のは偉いのですが、「この時期の弘前には」はいただけません。検証なんてするまでもない。まずはとりあえずのgoogleで「中央弘前」をワードに画像検索をかけると、3段目か4段目くらいに弘前電気鉄道時代の写真がヒットするのだから。

『40年前の鉄道風景』
 >1963年(昭和38年)東北の鉄道・弘前電鉄

 
終点の中央弘前駅の写真はフィルムの劣化がひどく、ひび割れも多いので、お見ぐるしいものですが、地方鉄道のターミナルの雰囲気がありましたので、敢えて載せました。
この後、1970年(昭和45年)に弘南鉄道に吸収合併され、弘南鉄道大鰐線となり、車両も買収国電、西武の旧車などが入り様変わりしたようです。
http://6.fan-site.net/~haasan55/Hirosaki.htm

どこで読んだか思い出せないのですが、三菱電機が資本参加していた鉄道会社なので、中央弘前駅の駅舎には三菱の家電製品のショールームが併設されていた、との記述がありました。その証拠のように、上記URLのサイトに掲載されている写真には扇風機がごちゃまんと置かれている様子が写っています。
おそらくはこれが開業以来の駅舎で、1963年時点でまだこのような姿で、ではいつ現在の姿になったのか? 1970年に弘南鉄道大鰐線になったとき?
いやいやそれがですね……。

1977年の『弘南鉄道五十年史』ではまだこの姿なのです。
ちなみにこの写真、撮影年も特定可能でして、

この「木下大サーカス」の立て看板、「青森初公演」とある。そこで『木下サーカス生誕100年史』をあたってみると、それは1974年のことだと判明しました。
撮影年がいつであれ、まさか年史に現役の駅の姿として昔の駅舎を載せるはずはありませんから、1977年ではまだこの姿だったと推測されます。
これが20年後の『弘南鉄道70年史』になると、

既に現在の姿に。正面の「大鰐線」表記の位置が変わっているのは、昔は広告スペースだったからだという趣味的には割とどうでもいいことに気付きます。ワード「中央弘前」でgoogleで画像検索かけて位置の変化を追っていくと中々面白いのですが、いちいち書き出すことでもないので気になる人だけ見てみてください。

しかし、別のページに載っている、駅の新築・新規開業一覧に中央弘前の名はありません。本文でも触れていませんから、外見は大きく変わっているものの、実は建て替えられてはおらず、ファサードだけを新たに付け加えて印象を大きく変えた改築だった(つまり建物自体は開業当時のまま)ものと見られます。

駅舎内のこのごちゃごちゃとした感じ、変なところに鉄の柱が立ち、中途半端な高さに梁が通っていることからも、間に合わせ的な改築があったと推察されます。

『五十年史』に戻って、これは弘高下駅の写真。「(昭和)49年9月に新設した駅舎」とキャプションがあります。デザインに共通性のある弘高下駅舎が1974(昭和49)年築であるなら、中央弘前駅舎の改築もさほど離れておらず、1978年か79年頃だと推察されます。また、新石川駅千年駅については記述がありませんが、これもデザインの共通性から察するに、70年代になってからでしょう。
つまり、駅舎を作った当の弘南鉄道としては、古くさい電車と設備で赤字を膨らませてきた弘前電鉄のイメージを覆し、弘南鉄道の新路線への生まれ変わりを強く印象付けるために、斬新なデザインを採用した…という心情だったと推察されるのです(まぁ、中央弘前弘南鉄道大鰐線になってから10年近く経ってからの改築ですが)。

そういう心情を汲むとですね。1978、79年頃の斬新な(当時)デザインの駅舎がですよ? 「戦後の混乱が収束した1952年」のものと勘違いされたり、「正に三丁目の〜」などと1958年のイメージとごっちゃにされたり、果ては「昭和の駄菓子屋・昭和時代の風景・いかにも昭和・昭和丸出し」などと64年続いた元号でひとからげにされたりするのはどうなんだと。
なんていうか複雑な気分というか、切なくなるのですよ。
ただ、そこで怒りとか呆れとかでなく、あくまでも「複雑な気分」なのはマァ「私だって他人のことを言えた義理じゃない」ってことで。こういうのは「昭和30年代のMZ-80」のショックで免疫ができてるしね(2005年7月20日付)。
……しかしアレだな、「私がなぜ「さすがにこれには参りました」とまで言っているか判らない」人は、もう確実に層として存在するな。知らないというだけでなく、気分すら判ってもらえないと思う。
 ずーっと前、このブログを開設したばかりのことに書いたことだけど、「「昔」の度合いがある程度を超えると、どんなモノも出来事も、時系列とは無関係に同程度の「昔」と感じてしまう」というのはもう間違いない(2005年3月23日付3月24日付)。では「その度合いがどの程度なのか?」を細かく探ってみるのも面白そうです。