セカイの対概念は市民社会

「日本には市民がいない。だからセカイを志向する」
という仮説はどうだろう。
近代にあって西欧思想を取り入れたものの、それを己の血肉とすることができなかったため、小規模な共同体”ムラ”から解放されても自律した”市民(civil)”には成り得ず、ために個人対個人の関係が”社会”を飛び越えて”世界”に直結する構造、すなわち”セカイ”を架構してしまう……てな調子で。
近代における西欧化の失敗から、脱ポストモダン的状況というべきセカイ系の普遍化まで、1本のラインでつなげられて面白いと思うんだがな。
ついでにちょっと暴走しておく。本質は非西欧なのに劇的に西欧的価値観に毒されて、もとい刺激されて、あれよあれよという間に旧政権を打倒してしまったイスラム国家のみなさんも、これから先、"市民"にはなれないのではないか、と推察してみる。つまり、セカイ系コンテンツの新市場がブルーオーシャン(死語?)として中東に広がっている、ということだ。
まぁ、元から一神教の文化だから日本とはベースが違っていて、そうそうセンスが合致するとも思わないけど。でも、「きみとぼく」とアッラーの間に世間や社会や国が無く、セカイが直結されているイスラムセカイ系とか想像すると、それはそれで面白そうじゃないか。
……いやまて、自分と唯一神とが直結されるのは、ちゃんとした信仰をもつ人には当たり前のことか。するってえとセカイ系は日本ドメスティックなのかなー。
http://longfish.cute.coocan.jp/swimming/index.php/2011/11/13/53