忠魂碑・忠霊塔(番外編)「虎尾山の戦役記念碑」

ニュースを見ていると、事件現場として何やらソレっぽい塔が映った。

https://www.google.co.jp/maps/@34.4834552,136.7161746,20z
松阪市の虎尾山に立つ「明治聖代戦役記念碑」、ただしこれまた戦後のGHQの指導によるのだろう、塔の名前は引き剥がされている。挙げ句、今ではラクガキに由来して「ニャロメの塔」と呼ぶ者もいるらしい。
しかし今、広く全国に知られているのは「ニャロメの塔」としてではなく、「砲台山」として、なのだという。

半分の月がのぼる空 1 (文春文庫)

半分の月がのぼる空 1 (文春文庫)

私は未見・未読、それどころか「タイトルくらいは聞いた事があるような気がしなくもない」レベルの認知度の作品なのだが、『半分の月がのぼる空』において、物語上極めて重要な役割を果たす舞台となっている、とのこと。
http://matome.naver.jp/odai/2144349639540243001
関連の「まとめ」を読むと、ファンにとってはいわゆる「聖地」であることがわかる。そして彼らは、その塔が本来なんであったかに興味は無い。まして、なぜ名前が剥がされたかなどに興味を持つわけも無い。

なるほど、歴史を隠蔽するにはただ隠すだけではなく、全く異なる意味を上書きすることが有効なのだな……などと思ってしまう。むろん、原作者はそれを企図した訳でなく、むしろ戦争を連想するよう促したいがために「砲台山」と名付けたのだと理解するが。

この件は、他の多くの忠魂碑・忠霊塔と同様に
個人(出征者)− 地縁的共同体 − 国家
の関係性について考えさせられることに加えて、先日起きた事件によって、
個人(先日の事件の当事者たち) − 地縁的でない共同体(マスとしてのファン)
の関係性を考えざるを得ないものとなった。
あえて続けて書くなら、
個人(出征者)− 地縁的共同体 − 国家 − 地縁的でない共同体(マスを成すファン) − 個人(先日の事件)
という「折り返し」の構図も見える。

また、「地縁的でない共同体」に注目すれば、こんな構図も見える。
現実(日露戦争の戦勝と太平洋戦争の敗戦) − フィクション(半分の月がのぼる空)− 現実(先日の事件)
現実の戦争と、現実の個人間の事件、そしてフィクションに過ぎない物語。それぞれの影響力は、はてさて如何ほどか。現実は常にフィクションの上位に置かれるものなのか?

「個人 − 共同体 − 国家」という軸と、「現実 − フィクション」という軸。この2本軸によって虎尾山の塔の在りようを掘り下げると、思いもよらず深い部分にまで行けそうな気がする。