栃木県烏山の旅/忠魂碑・忠霊塔#34

3月22日、那珂川清流鉄道保存会という施設を訪ねた帰り、烏山の町中。上り列車が出るまで1時間ほど時間があったため、とりあえず「山あげ」で有名な八雲神社に行ってみた。その神社の奥、あるいは裏手。

手入れされていない広場に忠魂碑らしきものが立っている。


碑文は「彰徳碑」。砲弾形でこの規模といえば、やはり日露戦争の戦死者慰霊の碑と思われたが……。

……。裏面には何かがはぎ取られた跡しかなく、詳細は不明。遺骨あるいは遺品が納められていたであろう部分も空っぽだ。

広場の奥にはこんな遺構があった。

碑との位置関係はこんな感じ。形状から推察するに、ここには砲身が置かれていたのではないか。となると、戦後のGHQの指導で軍国主義的とされて撤去されたというパターン? あるいはそれより前、太平洋戦争末期に金属材として徴発されたのか。いや、碑の状態と併せて考えるに、戦後に撤去されたとみるのが妥当だろう。

ちなみに、この筑紫山の山頂まで登り、さらに尾根を少々歩いた先にはこんな遺構がある。

山のてっぺんの古井戸……ではなく。「烏山防空監視哨」とのこと。那須烏山市の近代化遺産のひとつに指定されている。以下は現地にあった案内板の内容。

分類:軍事/監視哨
所在地:那須烏山市筑紫山山頂
建造年:不明(昭和16年以降)
構造形式:コンクリート
 
昭和16年12月に「防空監視令」が公布され(勅令1136号)、これを基に「栃木県防空計画」が策定されました。この計画では、県内に3カ所の監視隊本部と防空監視哨43カ所・補助監視哨4カ所の設置が定められ、監視隊本部の一つ宇都宮監視隊本部には19カ所の監視哨が配置され、烏山は6番目に位置していました。
(中略)
■哨員の構成と仕事 監視哨は哨長1名・副哨長3名および哨員24名で構成され、8名1組の3班で概ね3日交代で勤務していました。哨員の仕事は飛来する敵機の監視で、目視・聴覚で判別して本部に通報することでした。


さて、なんやかやで山を下りて、烏山駅へと戻る途中で通りがかったのが、この烏山彰徳神社。……彰徳?

傍らには、おそらく太平洋戦争も含めた戦没者名が刻まれた「平和祈念之碑」があり……。

すぐ近くには明治41年1月に建てられた「昭忠之碑」がある。

彰徳という名から察するに、筑紫山の麓の彰徳碑に祀られていた戦死者の霊はこの神社に合祀されたのだろう。そしてあの彰徳碑は役目を終えたのだと。……形式的にはそれでいいのだろうが、どうも釈然としない。慰霊とは形なのだろうか?

思い出すのは前に宮城県栗駒で見た、民家の庭に立つ忠魂碑のことだ(2006年12月10日訪問)。

玄関先にいらしたご婦人に、たまたま通りがかったところ忠魂碑が目に入りました、撮影させていただきたいのですが、と来意を告げると、快く承諾してくれたばかりか、由来も教えてくれた。

――元々は保育園の角のところに立っていたが、館山公園に立派な慰霊塔が建つことになり(そちらに合祀されるためだろう)、この忠魂碑は撤去されることになった。ところが撤去といっても、ただ倒されただけでその場に横倒しのまま放置されてしまっていた。近くに飲食店街があり、酔客の粗相に汚されることさえあった。それをご主人、「自分も戦場に出たが運良く帰ってこれた、戦死者が無下に扱われるのは見るにたえない」と引き取ることにした。そのときはお寺に引き取ってもらうつもりでいたが、檀家に反対されたとかでお寺には断られてしまう。そこで思い切って自宅に立てることにした――
 
http://gray.ap.teacup.com/unknown/214.html

ここには「祀る」ことと「弔う」ことの差がある。戦死者の霊が他の慰霊塔に合祀された時点で、この忠魂碑はただの石板になったはずだ。だが、ご主人はそうは思わなかった。「祀る」という形式とは無関係に、ただ戦死した者たちを悼み、己の心の赴くまま「弔う」ことにしたのである。どんな格の高い神社よりも、はるかに尊い行いだと私は思う。これは、神社を名乗りつつ法人としては新興宗教である(近代生まれのくせに古い神道の伝統にはめ込んだ)九段のあの神社の問題を考える上でも示唆を与えてくれるが、あいにく当ブログは政治の話はしない。

話を烏山の「彰徳碑」に戻そう。碑そのものの状態と、他所に彰徳神社があるという事実等から考えて、既に戦死者慰霊の役目は終えていると見られる。「それで良いのか」という思いはあるが、そんなことを考えるのは、そこに塔が残っているからこそなのだ。誰かが何かしらの意志を持って残したのか、それとも単に撤去が手間で放置しただけかは知らないが、まず「そこにあったこと」に私は感謝したい。