忠魂碑・忠霊塔#45/四国旅行#11

9月の四国旅行についてのエントリはこちらからどうぞ。
http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150922#p1

大歩危の話のちょっとだけ続き。

大歩危駅から徒歩10分弱、大歩危郵便局を通り過ぎたあたり。
「忠魂碑・忠霊塔反応アリ!」
私の中の鋭敏な石碑センサーは、神社・仏閣とも公園とも無関係な場所に何気なく巡らされている手すりにも反応するのだった。

そして実際立っているのである。センサーというか勘というか、経験知に基づく推察に過ぎないのだが。


「忠魂碑」とだけ彫られ、誰の書かは不明。それどころか裏面もただ「明治三十九年 十二月建設」とあるだけ。明治39年だから日露戦争の戦死者慰霊の碑だとはわかるが、ふつうなら碑に彫られている出征者の名前も、誰が建てたのかさえも彫られていないのである。

台座には「昭和四十年十月再建 終戦二十周年記念」、連名で「山城町遺族会 山城町」。この地は2006年に三好市として合併するまで山城町で、そこに疑問は無い。

うーむ、上では経験知で「忠魂碑がある場所を察知した」と書いてしまったが、よくよく考えるとなぜこんな場所にあるのかわからない。周囲に神社仏閣は無いし、広く「山城町」と捉えた場合、町役場がある場所をその中心と考えるとこれも遠く離れており(現在は三好市山城総合支所、ずっと北にある阿波川口駅付近)、町としての忠魂碑とは思えない。

このあたりの集落がどう形成されたかはわからないが、いずれにしてもここが中心ということは無いだろう。セオリーで言えば、ここから15分ほど南にある下名小学校が集落の中心と位置付けられるところだ。なぜこんな場所にひっそりと建っているのか。

そもそも誰の霊を祀っているのか? 再建したのは山城町遺族会(と山城町)だという。だがそれはまず間違いなく太平洋戦争の遺族たちの会だ。なにせ「終戦二十周年記念」なのだから。明治三十九年にこの碑を建てた人たちとは、言ってしまえば無関係なのである。

……元は全く別の場所に建てられたのが、太平洋戦争の敗戦で撤去命令が出たために当地に「避難」し、それも目立たぬ山中に置かれた。そして、そのまま半ば忘れられた存在になっていたが、昭和40年に誰かしらが発起人となって再建が図られた。だが、その頃すでに碑の出自は忘れられていて、碑をみても誰がどこに建てたのか判然としない。それでも、この碑とは本来無関係な山城町遺族会は出資した……という推測はどうだろうか。三好市教育委員会にでも尋ねれば判りそうな話ではあるが。