新潟・沼垂の旅

新潟出身の牌子さんからコメントをいただいたから新潟の写真でも貼っていこう。

長岡で寝て起きた11月18日日曜日。私はどこに出かけたかというと、電車に乗って新潟を目指したのだった。♪約束も行く宛もない〜状態で、そういう時は市内観光でそれなりに見応えのある街を目指すのである。長岡にもそれなりに見るところはあるんだけど、ちょっとまとまりが悪くて巡りにくいようなのでね。

まもなく終点新潟に到着、という所にきて廃線跡が見えてきた。慌ててスマホの地図で場所を確認。ああ、これはどこかの工場への引き込み線か。……ガチの鉄道マニアには無知をなじられそうだが、この時点での私の認識はこの程度だったのである。……よーし、じゃあちょっと廃線跡をたどってみるか、とここで新潟に来た目的が決まる。

新潟駅から歩き始める。途中、C57「ばんえつ物語」号に追い越されて煙に巻かれたりもする。風の冷たい曇り空だが雨は降らず、天気は悪いほうではない。


駅から廃線への分岐点(1)までは徒歩25分ほど。

レールは既にはがされている。
 

ちなみに、製紙工場への路線は未だ現役の模様。(2)
廃線跡をたどる、といっても線路に沿う道路は無し。また、線路の大部分が築堤上に敷設されているため、はじめのうちは線路とアンダーパスで交差する道を歩くくらいしかできない。しかし、

3地点でちょっと築堤に登り、南方を撮る。レールがはがされたのは、どうも分岐点周辺だけのようだ。単線非電化、典型的な引き込み線だとこの時は思っていた。
 

4地点の橋梁。橋を渡ったところから架線柱が立っている。元は電化されていたのが、架線柱を撤去したのだろう。
 

5地点の踏切。「埋められている」というより「埋まってしまった」感じで、ほぼ現役のままのようだ。この踏切の西側に、古風な木造建築が建っていた。私宅の画像はUPしないようにしているが、これは商店なのでご容赦。


お茶とたばこの高橋商店。

道路を挟んで向かい側にも雰囲気のある木造建築が(これも多分商店だったのでご容赦)。「何故こんなところに?」という謎は後ほど。
 

6地点の踏切から北側を見る。



7地点の踏切から北側。予習が十分でなかったため、ていうか地図すらろくに確認していなかったため、「あー、思ってたより広い構内だな〜」くらいしか思っていなかった。
この写真の右手側、踏切を渡った先に日本石油製油所の入り口がある。訪ねた日は、単に日曜日だから閉まっているのだと思っていたが、ここは2006年に閉鎖されたとのこと。
 

8地点、金網越しに製油所内を覗く。倉庫が重厚な煉瓦造なのは耐火性を重視したのだろう。製油所が閉鎖ということは、遠からず取り壊されるのか。
 

9地点、製油所への分岐点。敷地内のレールはおそらく現役当時のまま残されている。
 



10地点は「なんとなくこのあたり」。なにせ一面のすすき野原で、後から画像を見てもどこなのか特定できないのだ。訪問当時はこの頃ようやく「あれ? 製油所への引き込み線がメインかと思ってたけど、ここってひょっとして結構な規模の操車場だったんじゃね?」と気付いた。操車場の照明塔が今も高くそびえていたり、「国鉄」のコンテナが放置されていたり。
 

11地点には入れ換え用のディーゼル機関車が放置されている。ラッセルを装備しているのがいかにも雪国だ。ちなみにこの付近で、「ワンピース」の誰だか海軍のコスプレをした女性が二人、写真を撮っていた。別に廃線趣味というわけでなく、人気のない屋外で撮影したかったのだろう。知らない人に声を掛けられると気まずいのはお互い様なので、会釈だけして知らんぷりを通す。
 

12地点。このあたりがどん詰まりだ。レールがはがされているのは何かそうする事情があったのか、単に廃止になった時期が早かっただけなのかは不明。
 


どん詰まりまで来た後で、ここはかつて「沼垂駅」と呼ばれた施設だったことを知る。(13)

帰宅後に「沼垂駅」で検索……。ウィキペディアにこうあった。

沼垂駅は1897年(明治30年)、直江津 - 新潟間の開業を目指していた私鉄、北越鉄道の終着駅として設置された。当時は旅客扱いが主であった。
(略)
その後も新潟市民の鉄道誘致運動が続き、そのため北越鉄道は、沼垂駅から西に大きくカーブさせる形で線路を延長し、1904年(明治37年)、新潟駅(初代)を開業し、問題は収拾を見た。
国有化後は信越本線の駅となり、沼垂地区の旅客駅として、また港湾・工場地帯への通勤駅として重宝されたが、1958年(昭和33年)、新潟駅が現在の位置に移転した際に旅客営業を廃止、貨物駅となった。

つまり、単なる引き込み線だと思ってたどったのは、実は信越本線旧線であり、1958年までの新潟へのメインルートだったのだ。そして新潟駅移転後も、沼垂には大操車場があった。だから私の旅は、大宮操車場のあったさいたま新都心から始まり、在来線を乗り通して、新潟の操車場跡に至ったことになる。
 
また、ウィキペディア「沼垂駅」に貼られている「1930年頃(昭和初頭)に発行された新潟市の地図」から、高橋商店付近の歴史も推察できた。

赤丸で示したのが高橋商店付近。昭和初期にはここが沼垂市街の東南端だった。そのにぎわいがいつまで続いたかは不明だが、後に信越本線のルートが変わり沼垂駅が貨物専用駅と化して、市街の中心は新潟駅寄りに移ってしまった。そのため、このあたりには再開発の手が及ぶことなく古い建物が残った……そう推察される。