おたくと拙者と○○氏

パオロ・マッツァリーノ「日本列島プチ改造論」第79回。
http://www.daiwashobo.co.jp/mazzarino/index.html
(5月28日以降は下記)
http://www.daiwashobo.co.jp/mazzarino/080521.html

武士道ブーム以来、自分を侍にたとえる日本人が増えました。サッカーなどスポーツの日本代表まで侍ニッポンみたいなキャッチフレーズをつけてます。でもそのわりに、拙者(せっしゃ)とかそれがしと名乗る人が少ないのが不満です。

そうかなぁ? 私の周り(といっても直接言葉を交わすことは滅多に無い人々)では、結構聞かれるぞ。もちろん、オタクの全てが拙者とかそれがしとか言っているわけではないけどね。
この場合の「拙者」は、まずごく単純に「自己のキャラ付け」として選択しているものだ、と考えられる。日常では使われない一人称を使うことで、自らある種の虚構性をまとっているのだ(大学のときの後輩に一人称が「みども」だったのがいたなぁ、そういえば)。
また、それが通用してしまうこと(特段に奇異な目では見られないこと)がオタクの仲間うちの特性だから、拙者を使うことには「自分が『オタク』に所属していることの確認」の意味もあるのではないだろうか。
――といってしまうと、要は会話の中に○○言葉と呼ばれるスラングや符丁を織り込むことと同じだから、何も面白くはないか。えーと。
アンチオタク的な方向の分析で…、「『拙者』を使うのはその関係性が基本的に『ふざけ合い』でしかないと暗に宣言する行為であり、一定の距離を保つための予防線を張っているのだ」てな感じでどうでしょう。
いずれにせよ、おたくという二人称が、ある趣味嗜好のカテゴリーにまでなったのに対して、それと対置されるはずの一人称はあまり研究されていないのではと思う(単に私が不勉強で知らないだけとも思うが……岡田斗司夫の著作とか一冊も読んでないし)。

ところで、「おたく」の発生過程について、当事者の一人による興味深い自己分析があった。このところ当ブログで引くことが多い日経ビジネスオンラインの記事だ。

小橋昭彦「ムラからの手紙」2008年4月22日「『同人誌』の思い出話と当事者性」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080421/153809/

オタクという言葉に関して思い出すのは、当時、二人称に困っていたという事実です。SFファンの大会やコミック・マーケットのような会に参加するときはもちろん、毎月の例会にも、初対面の人と顔をあわすことが珍しくありません。そんなとき相手をどう呼ぶか、悩んでいたのです。
「あなた」とか「きみ」というのは日常的に使う二人称じゃないし、といって名字で呼ぶのは、なんていうのでしょう、その人の全人格を相手にしているようで(あるいはいきなり相手の懐に踏み込んでいるようで)、重いんですね。
(略)
 そんなときに呼び合うための呼称として、「おたく」っていうのは、当時ずいぶん腑に落ちた感じがしました。大げさな言い方かもしれませんが、二人称問題に対する救いのようなというか。だって「おたく」というのは、相手の人格ではなく、相手が築いた空間を指す言葉ですからね、「おたくのカーテンの色はセンスいいですね」って言い合うように、軽く使えるわけです。

「普通に名字で呼べばいいやん」と突っ込みたくなるが、趣味だけのつながりだから名字で呼ぶことに抵抗を感じる、この距離感こそがおたく第一世代ならではの心理の要点なのだろう(どうでもいいけどこの記事、この後に田舎暮らしでの近所付き合いに展開することまで含めて、私には大変面白い内容なのだが、何故かNBOの主要読者層にはえらく不評だ…)。
 
ただ、現在のオタクは「おたく」よりむしろ「○○氏」を使う頻度のほうが高い、という印象がある。本人に対しても、その場にいない人の話題にしても。
ここに小理屈をつけるなら、「名字+さん」だと人格を相手にすることになるが、「名字+氏」であれば、個人ではなくその人が所属している氏素性を指すことになる……てなとこだろうか。「おたく」が「相手の人格ではなく、相手が築いた空間を指す言葉」であるように、「○○氏」もまた「相手の人格ではなく、相手の素性を指す言葉」なのだ。
だから「おたく」も「○○氏」も根っこは一緒なのだが、しかし異なる言葉である。その差異は何によるものだろう? 一人称と合わせて検証すれば、そこにオタクの特性の変化が見えてくるのではないか、と興味が持たれる。
(と、例によって言いっ放しのホッタラカシにする予定)