ライトノベルと軽小説

いわく、村上春樹問題。

小田嶋(隆) この間、高橋源一郎が言っていたんだけど、今の若い人たちにとっての文学とか、読書体験みたいなものは、夏目漱石、森歐外は学校で習うにしても、そこから次はいきなり村上春樹になっている、という。

岡(康道) 飛ばされちゃうんだ。

小田嶋 太宰治ぐらいまではかろうじてあるんだけど、戦後の第三の新人――遠藤周作吉行淳之介とか、その後の大江健三郎とか、北杜夫とか、あの辺を全部すっ飛ばして春樹で、戦後というのはないんだって。これを「春樹問題」と、高橋さんが呼んでいた。

 高橋さん自体も飛ばされているんだ。

小田嶋 飛ばされている。だから何で俺らを飛ばして、いきなり村上春樹なんだ、と。日本文学史上、こんな何十年も空白があっていいのか、というのが、彼の問題意識なわけだ。

日経ビジネスオンライン連載「人生の諸問題 『坂の上の雲』は、いつまで棚の上に並んでいるだろう?」)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20101104/216938/

何で俺らを飛ばして、ってそらぁ「村上春樹はずっと小説家として現役である」という単純かつ決定的な理由でしょ。現役だから過去の作品も読まれる、ただそれだけ。
ま、いいや。そっちは置いとこう。問題は「読まれなくなった作家」にあがるのが「遠藤周作吉行淳之介とか、その後の大江健三郎とか、北杜夫とか、高橋さん自体」だというほうだ。

流行とは元より一時で終わるもの。自意識がどうあれ、高橋源一郎は所詮ある時期に流行作家として消費されただけではなかろうか。そうでないというなら、いわゆる流行作家と、ここで名の上がった作家たちとの差は何か? ……といったあたりで源氏鶏太の評価を探っていたのでした(2010年12月22日付)。

源氏鶏太とは1950〜60年代に絶大な人気を誇った作家で、その作品により「サラリーマン小説」という新ジャンルが成立するに至りました。表層的には娯楽小説の装いで、「軽小説」と言われたそうな。
軽小説……ライトノベル!?
(話の栞 2010年11月24日付「作家の麻生千晶さん」)
ラノベはさておき、そういうレッテルを貼られるくらいで、いわゆる文学作品として研究の俎上に上がることはまれなようですが、ある時代、たくさんの人々の心をつかんだことは疑いようがない。直木賞という箔だってついてるんだから立派に文学作品だ。
ちなみに、2006年には源氏鶏太作品を原作とするTVドラマが放映されていますから、評価の尺度によっては「時代を超越して人々の心に響く作品」だと言えるでしょう。
そんなこんなで「源氏鶏太文学史上において、あるいは現代において如何に評価されるべきか。良く評価できないのであればそれは何故か」……なんてことをグタグタ考えていたのですが、源氏に連なる者たちを系譜にまとめた人が既にいた。

サラリーマン漫画の戦後史 (新書y)

サラリーマン漫画の戦後史 (新書y)

この本の第一章「島耕作ひとり勝ちのルーツを探る」のなかに「全ては源氏鶏太から始まった」という小題が立てられ、「サラリーマンものブームが続いた約20年もの時間」(p20)をざっと概説しています。そして「<源氏>の血を継ぐ弘兼憲史」という小題のもと、『課長島耕作』のルーツが語られる。

サラリーマンになってもマンガを読み続けていたオトナたちに、源氏鶏太的世界観の魅力をマンガによって再発見させたのが、弘兼憲史が描いた『課長島耕作』だった。
源氏鶏太がいなければ島耕作は存在しなかったかもしれない。実際に、弘兼憲史はいくつかのインタビューで源氏鶏太ファンであることを公言している。
(p23-24)

なんと、源氏の末裔はマンガとなって現代に息づいていたのでした。
また、源氏鶏太の小説を原作とする映画も好評を博し、特に「社長シリーズ」は長く続いたことも有名。つまり、映像との親和性も高い。
軽小説≒ライトノベルというのも、単なる言葉遊びだけでないのかもしれません。マンガへの影響や映像との親和性という点において、案外と近い存在だったのでは?
ただしこの軽小説、今ではジャンルごと消え去って、どういう作品を指すのか伝わらないほどになっています(ていうか私も今日まで知らなかった。そういや「中間小説」も死語化してるよね)。ラノベがその轍を踏むとは思いませんが、時代の徒花は時が過ぎれば散るのがさだめ、なのかも。昨今、まさにライトノベルを指して軽小説と書く人もいるあたり、なんだか不吉な気配を感じたり。
なお、「源氏鶏太高橋源一郎その他との差は何か?」という本題については何も一歩も進まず。この後もきっと進まない。