トルコと部落と目眩まし

今どき堂々と「トルコ風呂」と書かれた雑誌記事を、それも写真付で見られるとは思わなかった。
といっても、今で言うソープランドのことではない。『東京人』07年12月号、特集「昭和30年代 テレビCMが見せた夢」の中の1ページ(p46)、モノクロのCMフィルムの写真3点に、以下のような文章が添えられていた。

浅草ニュートルコ・昭和33年
「健康増進」に、「お客様のご招待」にも、ぜひどうぞ。

サウナ・マッサージ・お酌のコースが楽しめるプレイスポットのCM。「フランス風トルコ風呂でミス・トルコたちがゆき届いたサービスを」してくれるらしい。あくまで紳士の社交場で、風俗店ではありません。

写真を見ると「若返りと健康増進に 浅草ニュートルコ」などとうたっている。トルコ風呂が今で言うソープランドになる前には、こうした健全なトルコ風呂もたくさんあったはずなのだが、現在では施設の実態を一切顧みず「『トルコ風呂』という言葉そのものが絶対のNG」とされ、抹殺された感がある(余談だが、赤線廃止が昭和33年だからトルコ風呂の意味が変わり始める直前のCMだといえそうだが、詳細は調べていない)。
もっとも、いずれにせよ健全なほうのトルコ風呂は忘れられた存在だといえる。あえて取り上げる必要もないから(上記記事にしても、無難な別のCMを取り上げてもよかったはず)、古い映画の台詞が無思慮に消されるくらいの影響で済んでいるようだ。
他方、「部落」という言葉のほうはまだ現役だ。集落ほどの規模の共同体を指して「部落」と呼ぶ人は今でも多い。しかし、「『部落』という言葉そのものが絶対のNG」とされ、ひとからげにフタをされている。先日のニュースでも、何かの事件でコメントを求められた老人が、自身の所属する共同体を「部落」と言っていた。さすがに音は消されなかったが、ご丁寧にもテロップはその発言、「集落」と修正されていた。バカバカしい、というか一体なにがやりたいのだと思う。
ただ、これら「トルコ風呂」「部落」のケースは、わからなくもない。「『トルコ風呂』とは性風俗産業だ」という共通認識が広く一般に形成されてしまっているし、「部落」は差別用語としても現役だからだ。
ひどいのは過去のドラマの再放送時などに「目眩まし」の音が消されているケースである。視覚不自由者を指す言葉とは、上3音が共通しているだけで一切関係ないのに……。
こと現代においては、言葉狩りを推し進めているのは苦情を申し立てる側ではなく、「自主規制」を行うマスコミ側である、といえよう。ま、「狩られるくらいならその前に自殺してやる!」という態度だとみれば、そこに日本人なればこその高潔さを感じなくもない。
 
――実は最も厄介で度し難いのは、苦情を申し立てる者でも自主規制するマスコミでもなく「善意の第三者」なのだが、それはインターネットの現状とも密接に関わる問題なので、あえてここでは取り上げない。