三河島や椎名町が消えたわけ

1962年(昭和37年)5月3日、国鉄(現JR東日本常磐線三河島駅構内で「国鉄戦後五大事故」のひとつに数えられる「三河島事故」が発生した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E6%95%85
死者160名、負傷者296名を出す大惨事で、三河島といえばイコールこの事故と直結的に連想する人も少なくないだろう。ウェブ上には「事故の影響で『三河島』という地名は無くなった」とする記事が散見された。

三河島」という地名は、昭和43年を境に消失した。鉄道史に残る大事故、三河島事故の悪夢を想起させるからという理由らしい。一つの事故が、地名を奪ったケースは他にはない。
(「暇人の戯言」2014年5月17日付)
https://blogs.yahoo.co.jp/sugoutakao/54997390.html

この事故によって三河島という地名は地図上から消えた。戦後の日本で、陰惨な事件や事故が原因となって地名が地図から消えたのは、おそらく帝銀事件三河島事故だけではないだろうか。
(「事故災害研究室」三河島事故(1962年))
http://p.booklog.jp/book/8921/page/215838

…などだ。
しかし正直わたしは「考え過ぎでは?」と思うのだ。住居表示法の施行が1962年(昭和37年)5月10日。これ以後、失われてしまった古い町名は枚挙に暇がない。三河島という地名が消えたのは(ついでにいうと帝銀事件の舞台「椎名町」の地名が消えたのも)、単にこの住居表示の実施とタイミングが重なっただけでは? ということである。ていうかイメージが悪いと言うならまず国鉄に対して駅名変更を要望するのが筋でしょ。

現に専門家は、旧三河島町域が「荒川」と改められたことについて、

しかし、この由緒ある地名は、六八年ごろ消え、三河島の中心部は「荒川」に、周辺部は他の地名に組み入れられた。静かな住宅街となった今では、「三河島」は駅名や保育園の名前などとして残るのみ。
荒川区ふるさと文化館の野尻かおる副館長は「区役所など区の中心施設がある場所を、区名の『荒川』にしたのでは」と語る。
(東京新聞「【東京通】<地名編>三河島荒川区) 三つの川に囲まれた“島”)
http://www.tokyo-np.co.jp/tokyoguide/hold/tokyo-tu/CK2008092202000171.html

としている。
そこで開いたのが『東京新地図』(1968年・毎日新聞社)だ。

この本、「住居表示のせいで馴染みのある地名と今の地名とが結びつかない!」という新聞記者の悩みから発想されたもので、新旧町名の対照法のほか、町名の由来やその歴史、文学作品、そして最近の話題などを著している。元は読売新聞夕刊・都民版の記事、1966年3月1日から翌年10月14日まで連載された。
 
その「禅寺に道灌の山吹塚 [荒川一〜八丁目]」(p364〜)は「三河島が消え、その大部分が区名を取って荒川となった」と始まる。
そして……。

その三河島が消えた理由には、こんな"家庭の事情"もあった。三河島といえば、むかしの貧民集落のスラム街を連想し、入学試験や就職、結婚などにも支障をきたす、というのである。ごく一部でだろうが、至極マジメに論議されたそうだ。

とある。あまりイメージの良くない地名だが、それは三河島事故とは全く無関係なのだ。というかこの本、そもそも三河島事故に触れていないのである。
 
一方の椎名町はどうか。こちらは見出しから帝銀事件の"舞台"消える [長崎一〜五丁目 南長崎一〜六丁目]」(p402〜)、そのうえ記事の半分以上が帝銀事件の話題で占められている。
ところが……。

椎名は秕(しいな)、つまり、みのりの悪いコメに通じ、それから転じて"シイナ野郎"といえば"できそこないメ"というわけだが、そういう軽蔑イメージがいやだ、それで消されてしまった。

帝銀事件を取り上げつつ、それはそれとして、また全く別の理由で地名が消されたと説明しているのだ。
 
無論これらの説明が必ずしも「正解」だとは限らない。ただ、短絡的発想の戒めとして受け止めるべきだとは思う。「三河島という地名は今は無い→三河島といえば(私が知っているのは)三河島事故だ→あの事故のせいで地名は消されたのだ」、「椎名町という地名は今は無い→椎名町といえば(私が知っているのは)帝銀椎名町支店だ→あの事件のせいで地名は消されたのだ」……といった短絡だ。現地感情や言葉のイメージには、広く知られていないものや死語化したものもあるのである。