「ソースは俺」は無価値という常識

……は未だ常識となっていなかった。

「ググったらこう書いてあった」で済ませてはいけないとか、「…とぼくはおもいます」や「ソースは俺」に価値を認めてはいけないとか、既に常識だと思っていた。いや、未だ常識になっていないなら普及させねば! 普及したらいいナァ…と思っていたのだが、それは全く無駄だったらしい。

少なくともこのブログでは「『ググった』は『調べた』のうちに入らない」と二度三度明言したはずだ。また、「…とぼくはおもいます」を書いたうえで、それは仮説・推測と位置付けて調査にかかるというプロセスをプロセスとして見せてきたはずだが、それは全く無駄だったらしい。

ソースの明示が大切であること、そのための文献調査(というのは口幅ったいが手法はソレなんで)が大変であること、ただしそれは当人には楽しみであることが伝われば…との意図があった。だから結論を急がず、行って帰ってきては記事にまとめ、新たな課題を抽出してまた出かけ…とやってきたのに、それは全く無駄だったらしい。

よりによって最終報告と銘打った記事に、唯一付いたコメントが↓コレって、もう限界。

そうりゅう あすか 2016/02/07 00:09
>ultimate
ピクシブ百科事典の「F104」のタグ内に「ultimate」について、『「最後」?「究極」?』との解説項目があります。
その出自は、示してないのですが、結論的にどっちも同じと言い切ってますにょ。

ソースが無い駄記事を、ソースが無いと分かっていて同列に持ってこられる屈辱! 私はいったい何をやってきたんだ!?

なにより耐え難いのは、その駄記事のほうが影響力があるということ。こっちのアクセスなんて実質ゼロだよ。単に「読まれない」というだけなら耐えられる。実際、一般的な価値は無きにひとしい記事だから。F-104が「最後の有人戦闘機」と呼ばれた経緯なんてどうでもいい話だから。

だけども、「同じ事象を扱っている」というくくりの中では話は別。そのくくりの中にあって、「…とぼくはおもいます」式の駄記事以下なんですよ、私がこれまで掛けてきた手間も、その背骨となるスキルも! これに耐えられるほどタフではありません。