「箱にし入れらむ物」

(↑続き)
「糞」と書いて「まり」と読ませるのは芥川の造語なのか? そのうち図書館にでも行って、中辞典以上の古語辞典を開こうと思うが、まずはネットでひとつルーツを追ってみた。『好色』の元ネタは「今昔物語」だ。そこでは何と書かれていたのだろうか?



代ゼミで国語講師を務めている方が、現代語訳と解説と合わせてブログに引用していました。「石野良和のブログ (日々是更新)」の2006年11月01日付、「「入試に出ない古文(5)「平定文、本院の侍従に懸想すること」最終回」です。
http://blog.livedoor.jp/mizuho1582/archives/50702407.html
結論からいうと、「糞(まり)」は出てきません。それどころか「糞」が出てこない。
現代語訳と対照すると面白いのですが、
「箱にし入れらむ物は」
→「おまるにひりだす便は」
 
「思ふに、さにこそはあらめ」
→「思うに、これが糞尿だろう」
 
「これは世の人にはあらぬ者なりけり」
→「こんなすばらしい糞尿をひりだす彼女は、この世のひとではないのだなあ」
 
「これを見るにつけても」
→「糞尿を見るにつけて」
とまあこんな具合で、現代語訳の「便」だの「糞尿」だのに相当する部分が、原文には無いのです。この後で「尿(ゆばり)」には言及するのですが、大便のほうは「今ひとつのもの」とぼかした表現になっている。へぇ、面白いもんだ。糞を糞だとはっきり書くのははばかられたわけですね。
しかしこれでは「糞(まり)」という古語は無かったという根拠にはならない。「糞(まり)」は出てこないが、それ以外の「糞」も出てこないのだから。さぁどうしよう。



(さらに続き→2012年7月24日付「まり」は芥川の造語らしい)



ところで本題から脱線するが、『好色』のラストシーンを読んで「なんでこの人いきなり死ぬのん?」と思ったのは私だけではあるまい。「半死」に留まったのかもしれないが、それにしてもいささか表現がオーバー過ぎる。
それが「今昔物語」のほうでは割りかし冷静で、「様々に極めたりける者の心ばせかな。ここの人にはあらざりけり(どんなことについても考え抜いた彼女の気配りだなあ。この世の人ではなかったのだ)」云々、という。
何者かに自分の便を見られる、という普通に考えたらあり得ない事態を予見し、それに備えて作り物の用意までしておくという頭の回転に対して「この世の人とは思えない」とますます惚れ込んでいくのでした。
なんだよ、元の「今昔物語」のほうが面白いじゃないか。なんで芥川はあんな幕切れにしてしまったのか……。原作の味わいが台無しの、まさにクソ改変だといえよう(それが言いたいだけか)。