自殺はするが自決はしない日本人

松井「死傷者不明、被害総額はどれくらいか見当もつかん。一つ教えてくれんか。これだけの事件を起こしながら、何故自決しなかった?」
柘植「もう少し、見ていたかったのかもしれんな」
松井「見たいって何を?」
柘植「この街の、未来を」
(『機動警察パトレイバー THE MOVIE 2』)
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東武百貨店宇都宮店の古書市で買った『週刊現代増刊 連合赤軍事件緊急特集号』(1972年3月21日号増刊)を読んでいる。ぶっちゃけ、いちばん腑に落ちるのが真鍋博のコメントだった。

連合赤軍と連合国民
山荘の出来事にふさわしく、この事件は"村の事件"であったはずだ。季節はずれの避暑地に、銃をもった学生が逃げこんできて、管理人の女房を人質にしたので、おらが村の駐在と青年団がおっとり刀で出動し、クマ狩りでもするように大騒ぎをし、それでもなんとか犯人を取りおさえればよかったのだ。
しかし、山の事件に機動隊が出動し、ニクソン訪中もすっとぶ国家的大事件になった。大事件になったというより、大事件にしたのである。大事件にしたのは報道軍団であった。テレビから女性週刊誌までの連合マスコミ軍である。
(略)
つくられた事件だけにアクションいっぱいの劇画調だった。
もし機動隊員の犠牲が出なかったら事件は国家的規模のショーで終わったかもしれない。
こういう言い方をするとひんしゅくをかうかもしれないが、機動隊の二人の犠牲者が出なかったら、全く誰にも被害を及ぼさなかったからである。
(略)
(注・このコメントの時点では田中保彦氏は重体ながら存命だった模様)

なので私の興味は、あさま山荘で起きたこと自体や、連合赤軍の面々がそもそも何を目指していたかではなく、「この事件を『週刊現代』誌はどう伝えているか」「当時の人々は事件をどうみたか」のほうに向く。

興味深いのは、「なぜ彼らは自決しなかったのか」というコメントの多さだ。

赤軍派も、滅亡的人生論からいうと、人質をとったのなら、その人質を犠牲にして、自分も死んだらいいんだ。
深沢七郎・作家)

三名の殺害という途方もない事態をひき起こしておいて、しかも、その見通しどおり(注・警察の見通しどおり)、最後に手をあげて出てくるところは、とても、戦中派であるわたしなどの理解できる結末ではなかった。
城山三郎・作家)

それと同時に、追いつめられ、まったく逃げ場のない赤軍五名は、なぜ、泰子さんと最年少の十六歳の加藤君を決戦前に送り返し、最後には、四人が、相互に自決しあわなかったのかと、私は非常ないきどおりを感じた。
(田中清玄・田中技術開発KK社長)

ところが犯人は、あれだけ銃撃戦を展開していながら、それでいて最後には逮捕されてしまった。これはわれわれ戦中派には理解できないことです。
われわれ戦中派なら、最後は人質を放し、自分たちは自決する。
(寺沢一・東大教授)

革命に自分の命を尊重していては何もできないはず。なのに連中は生きていて親が自殺してしまった、いやはや何ともいいようがありません。
笹沢左保・作家)

また、あれだけの抵抗をみせたのだから、持っていた手製爆弾で自爆するのかと思っていたら、そうでもない。逆に捕まったときは、うずくまってブルブル震えていたというから、まったくの拍子抜けだ。
大藪春彦・作家)

あの事件をみていて、従来の日本人とは、違っているように思いましたね。玉砕するかと思ったら、あっさり捕まってしまった。昔の人間だったら自爆するか、突撃していたでしょうがね。
斎藤茂太・医博)

部下達は全員治安部隊に投降したそうだ 。これだけの事件を起こしながら、何故自決しなかった?
(松井孝弘・警視庁警部補)

自決するのが当然だったのに、という論調である。
そこにひとつ、無関係なものを忍び込ませても違和感が無い。柘植の口を借りて「もう少し、見ていたかったのかもしれんな」と言ったのは監督押井守か脚本伊藤和典かは知らないが、あの事件をリアルタイムで知っているクリエイターは何かしら「自決しない理由」を言わずにはいられないのだろう。

♪都会では自殺する若者が増えている と井上陽水が歌ったのも1972年。ただし、自殺者が増えているというのは歌の文句の話で、実際には「1953〜1959年のピーク(人口10万人あたり31.5人)、1983〜1986年のピーク(同28.9人)、1998年以降現在まで」が日本の自殺率のピークなんだという。2011年の自殺者は3万513人で、14年連続3万人超だというニュースも聞こえてきた。いずれにせよ、大ざっぱに言って日本人は「自殺」に対する抵抗感は比較的薄いといえそうだ。

なのに、世を揺るがすほどの事を起こした締めくくりとしての「自決」はなかなか見られない。思想を持たない、破滅的な通り魔殺人などの場合でも、衆人環視の自殺を締めくくりとする者がいそうなものだ。現に海外ではそうしたケースがあるけれど、何故か日本には少ない。

テロリストやクーデター犯は失敗したら自殺するべきである、などとは言わないけれど、どうも「スタンダード」からズレている感じがする。そこに何か、日本人の国民性みたいなものがあるのだろうか。