「山月記」入れ替わりトリック説は誰も否定できない

適当な例が無いとはいえ、自分のエントリを持ち出すのも我ながらどうかと思うが、「『山月記』の巧妙な入れ替わりトリック」(2009-04-13付)という例がある。「李徴は虎に変身などしていない」という珍説、だがこれは誰も否定できないのだ。
心情的に「変身してなきゃ話が成り立たないだろ」と言う人は多いだろう。作品成立の過程から「人虎伝が底本なのに変身してないわけないだろ」と言う人も多かろう。
「オマエ、そんな読み方は間違っているよ」とも「そんな話はあり得ないよ」とも言われよう。
だが私は何の覚悟も抜きにして、引きもしないし撤回もしない。
だって、「虎に変身した」というのは、ただ李徴がそう言ってるだけ。李徴の虎への変身を袁参は見ていないし、「神の視点」での変身の描写も無いのだから。もしも「いや、◯◯には◯◯と書かれているから、これは実際に変身したと捉えられる」と言えるなら、それは反論として有効だが、「変身してなきゃ話が成り立たない」ではそれこそ話にならない。
(ちなみに「虎と月」asin:4652086318は「変身していないけど虎になっていた」という解釈で、さすが柳広司と脱帽した。語り手の信頼性の問題は私とは別の人物に背負わせていて、「山月記」解釈としてはアンフェアではあるけれど)
もちろん、これは練り込み無しの一発ネタだから批評性はない。だが、現に書かれている(書かれていない)のだから、共感は抜きにして不特定多数が共有できる。だから、誰かがこれを足がかりにより深い解釈へと到達することもできよう(ていうか李徴≠虎説は他の誰かが唱えていてもおかしくない)。
これがX年前、私が国文学科でやったことの、ほんのわずかな残滓に過ぎない。
何の専門家でもない、ただ四年制の大学を出ただけの私でさえ、この程度に「独自の読み方」の提供のルールを心得ているというのに、いったい何を今さら「こう読んだ」なのかである。