「つっこみ力」読了

マッつぁん気負い過ぎ。そんな肩肘張って「面白いでしょ!? ほら面白いでしょ俺!?」とやられてもこっちは息苦しいだけですぜダンナ、となだめたくなったパオロ・マッツァリーノの3冊目。
根が真面目なのでしょう、反撃がくると真っ向から受け止めずにはいられない性分の様子。なのに方法論として(表層的な態度として)「お笑い」とか「つっこみ力」とかを用いているから、どうにもチグハグになっている。「向こうの土俵にだって立ちますよ」との態度なのだろうけど、いちいちマトモに相手をしなくても、と思う。向こうはマッつぁんの土俵に上がってきやしないんだから。
どうにも、と学会代表としての山本弘の轍を踏んでいるように見えてしまう。ウェブサイト「スタンダード反社会学講座」を見ると、色んな意味で追い詰められているという印象だ。本業はあくまで小説の山本弘に対して、マッつぁんはこれが専門分野だから見ていて非常に痛々しい。「どこがお笑いやねん!」と軽くツッコミ入れてほぐしたい気分になる。

つーかそもそも、彼が何に怒っているのかよくわからないのよね。彼が仮想敵とする「学者」は、おおむね「正しい論理を啓蒙して民衆に教養を広めれば、いつか社会はよくなる、なぁんて盲信してた人たち」と定義される。
いや、学者ってそんなに真面目かよ? と私などは思うのだ。
私はかつて人文学の土壌に埋まっていた(芽は出ませんでした)のだけれど、人文学なんてのは、まず研究対象である文学からして無益な存在だ。当然ながらその研究は輪をかけて無益な行為だし、それどころかより良い文学作品を生む助けにすらならない。つまり有用な「正しさ」なんて存在しない。
「正しさ」が無いなら、学者は何を求めて研究するのかといえば、それは学者なりに「面白さ」を追及しているのだろう。
ただ、その面白さのツボが独特なので一般にはわかりにくいだけじゃないのか、と。これって、程度の差はあれ人文学に限ったことではないのでは?
んー、社会学の世界にはマッつぁんがいうような研究者もいるのかもしれないけど……やっぱり想像し難いなぁ。マッつぁんの嫌いな「世間知」にしても、「世間のツボ」「俺らのツボ」の違いを言い表すための言葉だと思うのだ。そこを峻別して研究対象へとアプローチすることに、なんの問題があるというのか?
てな調子で私には、彼が何に怒っているのかイマイチ理解できないのです。
(そもそも「正しさ」対「面白さ」の二項対立が無理なんだけど、それをひっくり返したら何の話もできないので華麗にスルー)



大和書房のサイトでの連載「日本列島プチ改造論」第18回では、タイミングよくテリー・イーグルトンを取り上げている。
実際、世間に受け入れられ、共感を得られる評論は「感動した」「魂を揺さぶられた」「主人公に感情移入できなかった」式の印象批評か、せいぜい「現代の一断面を鋭く切り開いて描いた」式の社会規範にひきつけたもの。完成度とか構造の重層性とか深層に隠された意味とかの評価なんてのは二の次だ。かかる現状からすれば、批評理論は確かに幻想と言えるだろう。
しかしイーグルトンならぬ我々は、そこでさらにもう一度逆転させて「にもかかわらず、研究者は」にまで考えをめぐらせるべきだろう。そこには「世間知」を超えた「面白さ」があるのだ。