姫路・国土復興之祈願塔(下)/忠魂碑・忠霊塔#46b

一昨日の続き。
http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20151116
 
ググる工夫でわかること】
日頃ワタクシは「『ググった』は『調べた』のうちに入らない」 などと言っているが、さは言えどググっただけで概ねわかることもある。


姫路の「国土復興之祈願塔」の件。これをまずそのまま、ダブルコーテーションで括って「"国土復興之祈願塔"」「"國土復興之祈願塔"」でググる。解説をテキスト起こししたサイトが見つかって(今では私の発言も引っかかるけどそこは無視してね)、それはそれで助かるのだが……。
http://www.mmdb.net/yamagata-net/usr/mae/hobo/page/A0903.html
それ以上のことはわからない。ちなみに上記URLで「藤井日達?下信徒」となっているハテナの部分は「猊」。

それでは、と説明板と台座の双方に出てくる「日本山妙法寺」でググる
ウィキペディアの項目や……、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E5%A6%99%E6%B3%95%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E5%83%A7%E4%BC%BD
当の日本山妙法寺の広報誌のサイトがヒットする。
http://nipponzanmyohoji.org/tenku.htm
上記URLから右端のスラッシュ以降を削除すると……。
「お問合せ info@nipponzanmyohoji.org 」と表示されるので二度ほど問い合わせのメールを送ってみたが、なしのつぶてだ。

その他のググった結果を含めて目を通しても、出てくるのは戦後から現代にいたるまでの活動に関する記述がほとんどで、肝心の戦前戦中のことがわからない。

ならば、と「"日本山妙法寺" 戦前」でググるといくつか論文がヒット。とにかく必要なのは「日本山妙法寺は戦前戦中はどんな性格だったか」がわかる情報だから、全部に目を通す必要は無い。
そこでこれ、外川昌彦「ガンディーと共に暮らす」。
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/43635/1/ioc159010.pdf
全文を通読するには少々ボリュームが大きいが、これまた全文に目を通す必要は無い。出だしの部分だけでいいだろう。

たとえば,戸頃重基は,「日本山妙法寺大僧伽の歴史的性格を知るには,戦前と戦後とのあいだに断層をみつけ,両者のあいだに飛躍をゆるさなければならない」と述べている。すなわち,外地での植民地当局や日本軍への協力という点で,戦前と戦後の活動には,大きな断絶があったと考える立場である。

それに対して,教団側の立場も含めてその理解については,戦後の日本山の平和運動への広範なかかわりとあわせて多様な議論がなされてきた。たとえば,教団側の出版物ではこの点について,「日本山の思想に戦前,戦後の断層もなく,旋回もありません。思想の前進の中から生ずる如是相があるだけであります」と述べている。

ここから、戦前・戦後で断絶しているとの評価(とそれに対する反論)があること、そして戦前の性格として「日本軍への協力」があることがわかる(大学生ならここで「戸頃重基」って人名のほうを拾って紀要とか著書とかを当たるように)。

だがこれでもイマイチ踏み込みが足りない。そこで人名を拾って「"藤井日達" 戦前」でググる
そして「日本山妙法寺藤井日達聖人」というサイトの「陳情書」に行き当たる。
http://nipponzanmyohoji.net/preach/category/%E9%99%B3%E6%83%85%E6%9B%B8
これも通読するにはずいぶん長いが、まずは「この陳情書は宮崎市内に建つ「八紘の基柱」を開迹して仏舎利にすべくG.H.Q.その他行政機関に提出したものです」「敢えて「八紘一宇」の真の意味を仏教徒の立場から説かれている」だけ押さえればいい。

http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20131125
これだ。宮崎の「八紘之基柱」現在は「平和の塔」……。

通称「八紘一宇の塔」。「戦後の1946年(昭和21年)にGHQの命により、「八紘一宇」の文字と武人の象徴であった荒御魂像が撤去された」という過去がある。

そこで「八紘一宇」でググると、ウィキペディアの「『日本書紀』巻第三神武天皇の条に書かれた「掩八紘而爲宇」の文言を戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語」との解説に行き当たる。

藤井日達日本山妙法寺はいわゆる日蓮主義ではないようだが日蓮宗系には違いない。そして「軍への協力」という性格を帯びていたことから推察するに……。

「国土復興之祈願塔」の台座背面には「八紘一宇」の四文字が彫られていたとみて、まず間違いないだろう。


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確証といえるほどのものはないが、つまりこの塔は皇紀2604年(昭和19年)8月におそらく戦勝を祈願して(「日本山の思想に戦前・戦後の断層が無い」という主張を採るなら「平和回復を祈願して」くらいか)建てられたものだ。だが敗戦後、公文書において「八紘一宇」の語が禁止され(昭和20年12月15日)、そして未確認情報だが翌月、昭和21年1月に「八紘之基柱」の「八紘一宇」の文字が削除されると、その後を追うように、昭和21年前半のうちに現「国土復興之祈願塔」からも「八紘一宇」が削除された。

こうした戦後の動向の中、思想の大旋回を図った(教団の主張を採るなら「思想の前進」を果たした)日本山妙法寺は、インドとの独自のコネクションを活かした佛舎利塔の建立を計画する。先に引用した「陳情書」の日付は昭和21年8月6日、「国土復興之祈願塔」は「昭和21年8月8日建之」とされる。陳情書とタイミングを合わせて、姫路の南無妙法蓮華経の塔を「国土復興之祈願塔」にリニューアルしたのは、やはり思想の大旋回(もしくは前進)と佛舎利塔建立計画をアピールする意図があった、とみるのが自然だろう。



てな感じで。「解説と実物とで年がずれている」というなんてことない発見が始まりでも、大した専門知識が無くても(自慢じゃないが私は「日本山妙法寺」が何かも知らなかった…まぁ後で「ああ、あれか」とは思ったけど)、急所を押さえてググっていけば、ネット上で公開されている情報だけでも、隠匿された現代史の一側面を照らすことさえできるんだよ〜という話がしたかったわけですが、どうですかね、そのあたり伝わりましたかね?