同和鉱業花岡線の廃線跡

6月初めの東北旅行の話の続き。
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小坂線の廃線跡を少したどった後、大館駅のほうに戻り、ここで足を止める。

♪何にも気づかずに通り過ぎてしまえそうで〜 って歌ってばかりだが、知らなかったらただの空き地の草やぶと通り過ぎてしまいそうなこの場所。

ふたたび「国土画像情報(カラー空中写真)閲覧機能(試作版)」で閲覧できる昭和50年度の大館の空中写真。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CTO-75-22&PCN=C5B&IDX=32
画像下端の小坂線から分岐して上のほう(北方)へ行く路線、花岡線が写っている。先ほどの草やぶはその分岐点の跡なのだった。以下、ウィキペディア「同和鉱業花岡線」の項より。

同和鉱業花岡線
花岡線(はなおかせん)は、かつて秋田県大館市に存在した同和鉱業の鉄道路線
花岡鉱山からの鉱石輸送を目的として、1914年(大正3年)に花岡鉱山が開設していた専用鉄道を翌1915年(大正4年)鉱山と共に藤田組(同和鉱業の前身)が買収、同年に1909年(明治42年)に後の小坂線を開業させていた小坂鉄道に譲渡され、1916年(大正5年)に旅客営業も行う普通鉄道として開業した。
この時は、小坂線と同様に762mm軌間軽便鉄道規格路線であったが、1951年(昭和26年)に小坂線より一足早く1067mmへ改軌され(小坂線の改軌は1962年)、国鉄との貨車直通を可能にした。1958年(昭和33年)には同和鉱業へ小坂鉄道が合併され、同社の保有となった。
しかし花岡鉱山の閉山を受け、1983年(昭和58年)に貨物営業を廃止する。その後しばらく旅客輸送は継続したが、1985年(昭和60年)に全線が廃止となった。
なお残った小坂線も、1989年(平成元年)に小坂製錬へ経営が移管されたのち、2009年(平成21年)に廃止された。

細長い土地だから再利用しにくいのか、廃止後28年も経っているにもかかわらず、築堤はほぼそのまま残っている。

蔦が絡まっていてよくわからないが、ここは橋梁も架かったまま。

奥羽本線との交差部分、こちらはさすがに橋梁はないが橋台が残っている。奥羽本線の車内からも見えるので、何だかよく知らないけど見覚えがある人も多いのでは。

1993年3月27日撮影。当時からほとんど変わっていない。既に廃止されていたのだから当然ではある。

非常にがっしりした構造物という印象。1951年(昭和26年)に改軌しているがそのときの橋台なのだろうか。

奥羽本線を渡って北側の橋台もこのとおり残っている。
このあたりの築堤上の区間は歩くことはできないが、途中から近隣住人のための裏道というか路地の様相になる。

このあたりはたぶん立入禁止のはずなのだが、道としてすっかり踏み固められており、日常的に利用されているとわかる。

一部は車も入れるようになっている。ただ、それはごく一部で、基本的には裏道だったりそもそも道でなかったりだ。

線路も枕木も、その他の施設も残ってないが、そんな廃線跡で目を引いたのがこれ。鉄道電話の電柱か。あるいはそもそも鉄道とは無関係かもしれない。

大館駅からだと徒歩30分ほど、下内川が花岡線跡最大のハイライトだろう。橋台・橋脚のみならず橋梁までもが端から端まで残っているのだ。

こちらは1993年3月27日撮影。今ではこの撮影位置に踏み込むことはできない。この頃は対岸の橋台まで見渡せたのに、今は木々に覆われている。20年という時の流れを感じてしまう。

橋梁を貫くように、絡めとるように木が生えている。わずか20年でここまで伸びるものなのかとちょっと驚く。

20年前……。今回の旅行はこれがあると知っていたからここまで歩いてきたのだが、20年前の私はなにがあるとも知らないのに30、40分も歩いてこんなとこまで来てしまったのか。一体なにを求めて歩いていたのやら。廃線でなく、自分の過去を思って少しセンチメンタルになる。
……そして今もそのバカさ加減は大して変わっていないことに気付いて愕然とする。
つづく。