バレ無しでダークナイトの感想をもう少し

名作『ダークナイト』について、あえて不満点から書いてみるテスト。キーワードは前日に続いて「容赦無い」。
 
1.容赦無くリアルであろうとするあまり、所々に残るいかにもコミック原作的な要素、ハリウッド大作的な要素が浮いてしまった。
その最たるは「バットマンを眼前にして会話をしても、その正体に気づかないハービー」という場面。こんなのは普通ならば「お約束」とか「ご愛嬌」でスルーできるのに、この作品だと実に浮く浮く。
また、いかにもハリウッド超大作然とした大爆破が何度かあって、それはもちろん見所なんだけれども、「いやジョーカー、どこから爆薬調達したの? そのセンから足はつかないの? あんな建物とかこんな建物とかにいつ爆弾仕掛けたの? どうして誰にも気付かれなかったの?」とかいった、これも通常ならスルーできることが気になるのよ。
容赦無くウソ臭さを排除したために、普通なら気にならないレベルの嘘や約束事が目立つ結果となっている。
 
2.ジョーカーの既知外描写が容赦無さ過ぎて可愛げがない。
既知外ってのは一般には「気○い」の言い換え(苦笑)ですが、『ダークナイト』のジョーカーに限っては「既知外」という字面のほうがしっくりくるな。
というのは、世間に非難されても頑固に俺ルールを守る闇の騎士がいて、表と裏がはっきり二分されているあの人がいて、それに対してジョーカーは表を裏にするような、裏も表もないような既知外あるいは「混沌」だという話。見た目どおりの「道化」、トリックスターだ。
ふつうなら「ワケがわかんなくて出鱈目で、奇怪だったら混沌だ」で済ましてよさそうなものを、この作品の製作者たちは妥協しなかった。「混沌の象徴とは如何なるものや?」と容赦無くゲシガシと掘り下げちゃった。
製作姿勢はいい。敬意を払うに値する。完成したキャラクターも、故ヒース・レジャーの怪演と相まって、それはそれは比類なきものだ。
でも可愛げが無い。キャラクターの魅力とは別のレベルの問題として、作品の一パーツとして、なんというか可愛げが無い。
これはティム・バートンの『バットマンリターンズ』と比べるとわかりやすいだろう。バートンはこう言う。「ああ、ペンギンはキ○ガイさ、フリークさ! バットマンもそうだ。俺だってフリークだ。そしてアンタだってご同類……だよ…な?」と。この切り口は、一作戻って1989年の『バットマン』のジョーカーについても言えるだろう。
比べて『ダークナイト』は、ジョーカーを突き放している。突き放したうえで、容赦無く「既知外とは如何なるものか」「混沌とはどう存在するか」を掘り下げている。「我々」の外にいる、既知の外にいる「混沌」という者を、「我々」でない者として徹底的に掘り下げてしまった。
その結果、魅力はあれど可愛げが無いジョーカーが出来上がったのではないかと思う。
 
3.他が容赦無さ過ぎて、最大の山場がもはやファンタジー
いや、わかるんだよ。ハービーがもたらした「光」を具体的に描写するには、ハービーがもたらしたものが単なるフィーバーだけでないと見せるには、あの場面が必要だと。いやー、でもさあ? アレは絶対あり得ないだろう。ジョーカーでなくたって唖然としちゃうよ。いや、もちろんね、筋立て・作劇術としては絶賛したいし、ただ観ているだけの観客としては涙さえ流した名場面なんだけど、引っかかるんだよね。どうしても。

不満点はまずこんなところ。我ながら無用に厳しいと思うけれど、ひと度「容赦しない」となったら、わずかな妥協も許されなくなる。そういうことだろう。もちろん『ダークナイト』の製作者に何か妥協があったなんて思ってはいないのだが、それでも傍観者たる私の目には、至らぬ部分が見えてしまう。こうした意味において、バットマンブルース・ウェインの姿とクリストファー・ノーラン以下スタッフ達の姿は、二重写しにも見えるのだ。
……いずれまた改めて感想を書くこともある、かも。

余談1:「過剰な正義が市民に嫌われたり、警察組織に追われたり、弱っちい偽者が現れたり、なんか設定が『アクメツ』を思わせるよなあ」と、「アクメツ ダークナイト」でググったら、原作者・田畑由秋のブログがトップでヒットした(笑)。しかもアクメツとは全く無関係に、ごく普通に『ダークナイト』の感想を書いていた。

余談2:ここまでやっちゃうといろんな意味で続編作りにくいよなあ、と思ったが、どうも最初から3部作の予定だったそうで。となると、この第2作で散々バットマンの限界とか「後継者」とかの話をした後だし、3作目は復讐の天使アズラエルの出番でしょうか? でもって後半は「ダークナイト・リターンズ」とか。