クリアなノイズ文化論の可笑しさ

東京大学「ノイズ文化論」講義

東京大学「ノイズ文化論」講義

いやまぁノイジーに語られても困るんだけどさ。「おお、これもノイズのひとつだ!」「むむっ、これはノイズの排除というよりほかない!」と、持論を手当たり次第に当てはめていくから、結果的に平板な論になっているのよね。

松本のサリン事件があったとき、まだ警察からなんの発表もされていない時点で、近くに住む人の家から化学薬品が発見されたことを、サリンとなんの接点もないのにテレビは報道しました。そこにも、「間」がないんですね。待っていられない。テレビの時間を埋めようとして、なにかあれば大げさに騒ぎ立てる。(p178)

その言葉、そっくり返したい。「ノイズ文化論のマス目を埋めようとして、なにかあれば大げさに騒ぎ立ててるのは誰だよ」と。
適用範囲が広いということは、つまり莢雑物が少ない、ノイズが少ない論ということ。ノイズ文化論は、ノイズを排してクリアに成り立つという、おかしなことになっている。
サブカル史研究だけに留まってればボロは出ないだろうに、手広くやりすぎて端からホロホロほつれ出す。著者はもちろん頭のいい人だから、流し読みならば説得力も感じられるが、どこかで一度でも「いや、それは違うだろ」「そりゃさすがにムリだわさ」とツッコミ反応をしてしまうともうダメ。あとは半ばトンデモ本として、論の展開の強引さを楽しむことになってしまう(これは「半ば」であって、残り半分は傾聴に値する内容です、念のため)。
あえて逆説を弄せば、「著者はとても頭がいい人だ。思慮の不足を思い込みの激しさと押しの強さで補えるのだから」と評価できるだろう。
つづく。