暴露されたニュータウンの「ノイズ」

承前、『東京大学「ノイズ文化論」講義』(宮沢章夫asin:4861912849)の話題の続き。宮本のいう「ノイズ」が排除された場所の例として、しばしばあげられるのがニュータウンである。

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ニュータウン」という言葉や、そこにつくられた建築によって、「ニュータウン」は、「闇」や、それこそ<ノイズ>を隠蔽する装置にもなると想像するんですね。
 そうして隠蔽されたものが、ときどき吹き出す瞬間がきっとある。それが九〇年代の後半に起こった「酒鬼薔薇事件」(神戸連続児童殺傷事件、一九九七年)じゃなかったか。

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(酒鬼薔薇事件は)「ニュータウン」というものに閉じ込められた、不合理の排除でフタをされた社会が壊れた瞬間だと考えられる。そこを「街」という観点から見つめ直したい。

宮沢は「酒鬼薔薇事件とニュータウン」に1講を割き、「ニュータウン論」を形作ろうとさえしている。
一読者としては、まず「何を今さら酒鬼薔薇事件?」と思うし、取り立てて新味のある視点でもないし、そもそもニュータウン論や郊外論は随分と昔からあるし(郊外=都市の周縁の拡大という話は大正〜昭和初期に関したテーマですらある)、ここらへんひっくるめて「ワイドショー的に明快、だが浅薄」というのが正直なところだ。
ただ私には、「酒鬼薔薇事件=ニュータウンに隠蔽されてきたものの噴出」という着眼点から、ひとつ連想されたニュースがあった。

【パイプで輸送「夢のゴミ収集」、次々廃止…廃墟化恐れ】
(2007年1月29日3時1分 読売新聞)

地下に張り巡らせた輸送管でごみを収集する「管路収集」の廃止が相次いでいる。

ごみ袋や収集車が姿を消す「夢のシステム」として、大規模ニュータウンなどに巨費を投じて導入されたが、ごみの減量化や分別収集のエコロジー時代に合わなくなった。
東京・多摩ニュータウンなどで廃止されたほか、横浜市の「みなとみらい21」や千葉県の「千葉ニュータウン」も廃止される見通し。施設の撤去には多額の費用がかかることから、「大量消費、大量廃棄時代の遺物」として、各地で廃虚化する恐れがある。

管路収集は1970〜90年代にかけて、全国10か所以上で導入された。

多摩ニュータウン「多摩センター地区」(82ヘクタール)では1983年、東京都多摩市が約50億円をかけ、稼働させた。約600か所のダストシュートなどから捨てられたごみは総延長6・5キロの金属管を通り、吸引機で収集センターに集められた。

当初、可燃・不燃ごみや牛乳パックなども混在して捨てられていた。しかし、90年代に入って資源ごみの再利用などを目的とした分別が始まると、投下されるごみは減少。分別のための収集車も復活した。処理量は計画の約7分の1の1日約8トンにとどまり、排出者からの料金では運営費(年間約1億円)が賄えなくなり、2005年3月に運用をやめ、収集車が回収している。

本来ならニュータウンのゴミは、山と積まれることなくダストシュートに放り込まれ、人目に付かぬ地下の輸送官を行っていた。しかしそれが廃止され、収集車が、そして街角のゴミステーションが復活した、というのである。
そも管路収集の導入は、何を目指していたのだろう? もちろんゴミ収集の効率化や利便性の向上、カラス被害の防止など現実的な衛生問題もあっただろうが、何よりも「清潔な街のイメージ」の現実化を目指したとみるのが、自然であろう。
引用した記事も、冒頭で「ごみ袋や収集車が姿を消す「夢のシステム」」と言っている点に注目したい。この記述から、管路収集の目的を「ゴミ袋がカラスに荒らされてゴミが散らかることを防ぐため」ではなく、「ゴミ袋や収集車を排除し『清潔なニュータウン』を実現するため」と読み取るのは、あながち的外れではあるまい。
だが、それが廃止された。「清潔な街」を保ち続けるシステムには、限界があったのだ。結果、収集日となれば街角にゴミが積まれ、街中を収集車が行くようになった。だがそもそも、人がふつうに日常生活を送っていればゴミの発生は不可避。それを隠蔽すること自体に無理がある。そうした「ノイズ」は、隠すことはできても消滅させることはできない。隠しきれなくなれば、必定、暴露される。
このゴミ収集の変化というケースは、宮本の言う「ニュータウンの隠蔽されたノイズの噴出」が、殺人事件というレアケースではなく、ごく日常のレベルにおいて起きた一例だと言えるだろう。



……言えねえって。うっかり私自身が飲み込まれそうになるが、猟奇的殺人とゴミの管路輸送システムとの間に、一体なんの関係があるというんだ?(笑) 大体、管路輸送の廃止は根本的な処理能力の限界ではなく、システムの変化に適応できなくなっただけだし(仮に「分別しなくてもいいですよ」となればまだ実用にたえるはず)。
まあ拙文では、「なるほど、『ノイズ』という視点は現代文化・現代社会を考える上で有用なものだな」などと説得力を感じる人は少ないだろうが、論旨のムチャさでいえば宮本の『ノイズ文化論』も大体こんな調子なのである。眉に唾して読むべきだろう。