「女生徒」(塚原重義)

さらにもうひとつタイトルを分けて「美少女の美術史」の話の続き。太宰治の「女生徒」が原作のアニメについて。このアニメ、基本的に会場でしか上映されないし、DVDも基本的には青森県立美術館静岡県立美術館・島根県立石見美術館のミュージアムショップでしか購入できません。

まあアニメなんだけどもシナリオは無くて、台詞もナレーションもひっくるめて一人でやる朗読劇です。原作からして語りも視点も一人称だから適当な手法といえましょう。朗読は妙なお久しぶり感のある遊佐未森、映像を手がけたのは塚原重義、たぶん個人製作。「ロボットと美術」のアニメは良くも悪くもアニメ然とした作品でしたが、こちらは良くも悪くもアート然とした作品でした。

この作品、鑑賞のポイントは何と言っても「語りの人称」。いやほら原作がさ、その名も高き太宰治だからさ、顔もまぁ知っているから、原作小説を読んでいるときってこう、「太宰が女生徒のコスプレして語っている」姿がどうしてもチラつくわけですよ。そういう妄想力を抜きにしても「太宰作品としてどう捉えるか」をどうしても考えてしまう。

ところがそこがさすがにアニメーション、女生徒が女生徒として現れるからその印象(視覚情報)に引っ張られて、言っていることは原作と同じであるにも関わらず、ちゃんと女生徒の語りに聞こえる(見える)のでした。当たり前のことだけど、これが映像の力の基本でしょう。……いやまぁ、そこでまた遊佐未森の顔がチラつかないわけではないんですけどね。

でもってここからが本題。アニメ化といっても朗読劇、原作のまま一人称の語りとなっています。ところが映像のほうはそのあたりを考慮せず、ふつうに三人称の視点となっている。そこに根本的なズレがあるのですが、描かれるのはただ「現実」のみでなく、主人公の目に映っている世界であったり、あるいは「自分はこうである・こうありたい」という自意識なんですね。この、なんていうかな、自分のイマジネーションの世界に耽溺しながらもそれを突き放して見ているという二重性が面白い。

ただし下着の刺繍など、主人公が強く意識しているにも関わらず映像としては全く描写されない要素もあって、さてどうだろう、作り手には一人称と三人称のズレを制御下に置こうとする意識は本当にあったのか? という疑念も無いわけではない。

そうそう、イマジネーションの世界に重点を置いているのに……いや、置いているからこそだろう、細部にわたって非常にリアルな作画となっているのも見所です。

東京市電3000形の昭和12年塗装車が出てくるアニメは「女生徒」が初!と思う。
https://twitter.com/iyasakado/status/486807535052013568

『女生徒』にて間一髪だったのが、バスが渡る某橋の描写。当初揃えていた資料が実は昭和15年に架け替えられたもので、作中年ではまだ木橋だったことが判明したのが本編完成の数日前。急遽BG差し替え。昭和初期の東京郊外はインフラの更新頻度が激しい。
https://twitter.com/iyasakado/status/510329930853261312

このディテールのこだわりよ!
とまあ、なかなか見る機会の無い・入手する機会の無い作品ですが、かなり意欲的かつ完成された作品なので、なるべく多くの人に見て欲しいと思う次第。