「俳句 −十七字の世界−」第1週#2

1-6〜1-9の4回を視聴。ここまでで長さがバラバラなのはわかっていたけど、1-9、21分ってなんぼなんでも長過ぎだ。もう2分割しちゃえよ。ちなみに最短の1-6は1-9の3分の1弱で6分37秒。内容で分割したらこうなることも避けられないんだろうけどさぁ。

というわけで1週目は全て視聴を終えたが、すごいね。とうとう俳句まで行き着かなかった(笑)。もちろん、丁寧に成立を追っていればこそだから特に不満があるわけでないけど、なんというか意表を突かれた。いちおう芭蕉の作品は出てくるけど、それは俳諧連歌で、しかも発句(五七五)ではない、という。

1-6は俳句成立の背景としての連歌についてで、そして1-7でようやく俳諧連歌の話になる。それにしても連歌だの俳諧連歌連句)だの、これとは関係ないけど算額奉納だの、昔の日本人はえらく知的なゲームにハマっていたもんだね。
ていうか、それほどの知性をどうしてゲームに注ぎ込んだ!?みたいな気分。元々は和歌を作る合間のお遊びに過ぎなかった連歌に皆がのめり込むようになって、一ジャンルとして成立させてしまう凝り性も、なんつーか日本の文化だなぁとしみじみ思う。

1-8、1-9は芭蕉とその弟子による俳諧連歌、「市中は 物の匂いや 夏の月」(凡兆)を発句とする「歌仙」を題材にして、具体的に俳諧連歌のルールを解説。いやもう、鑑賞法の解説というよりかは俳諧連歌というゲームのルール解説だよ(ちなみに36句で終わる俳諧連歌のことを、三十六歌仙にちなんで「歌仙」という……駄洒落か!)。「三句放れ」(「にくばなれ」だったらこれも駄洒落になったのに)のルールとか、よくまあこんな変テコなしばりを考えたもんだと思う。

9回分の視聴を終えてクイズに挑戦。1回目10門中7問正解、2回目も全問正解できず9問にとどまる。不正解は問3。ん〜、「秋の夕暮」の概念そのものは固定化されてないか? いやまぁ、固定化されているものを別の角度から〜というリクツなんだろうけど、なんか釈然とせんなぁ。