/ジオングが赤くない理由

ジャブローでシャアと再戦したアムロは、まず赤いモビルスーツを認めて「シャアか?」と思い、その後に、一撃でジムを撃破したのを見て「シャアだ」と確信する。話進んで終盤、ア・バオア・クーでの決戦。ララァとの出会いと死別を経たアムロは本格的にニュータイプとして覚醒し、シャアの存在を気配で察知できるようになっていた。どんなモビルスーツに乗っていようがもはや関係無く、シャアをシャアとして認知できるのだ。だから、赤くない。もしもジオングが赤かったなら、演出上アムロは「赤いモビルスーツ、シャアか!」と言わざるを得ない。それでは結局、視覚情報による認知がまずあることになってしまい、ニュータイプの凄みが薄らいでしまう。この場では既に「赤」は邪魔なのだ。また、MSの外観が認知と無関係になる、という話運びは、後の生身での決闘にもつながっていく。おそらく、そこまでの演出的な計算があっての「赤くないモビルスーツ」だったのだろう。

なんで今さらこんな話かというと、先日マンガ喫茶で『機動戦士ガンダム TheORIGIN』(ISBN:4047138509)をまとめ読みしたから。アムロジャブローで「シャアが帰ってきたようだ」と報告するあたりを最後に、アニメから離れた展開になるのね(9巻 ISBN:4047137146)。それにしても、まず控えめに言えば「名にガンダムと付く作品でマトモなのは最初のガンダムとそのリメイクであるオリジンだけ」だと思った(マトモでないけど面白いガンダムは他にもある。念の為)。そしてもうひとつ、暴論を承知で言えば「ガンダムが名作なのであって、監督が名監督なのではない」と、私は確信した。いや、まぁ「富野喜幸は名監督だった」となら言ってもいいけど。

逆シャア」の支離滅裂っぷりときたらナンセンス喜劇の領域だし、「F91」はだいぶマトモ(とりあえず頭と尻尾によって「セシリーがシーブックの元を離れてから見つけ出されるまでの話」という要約文にまとめられる)だけれど、完全劇場用新作なのにまるでTVシリーズのダイジェストのようで、「この人ホントにこれしかできないんだな」とガッカリさせられたものだ(企画段階のことなど知ったことか)。