/逆襲のシャアのこと

先日のコメントで「ひと言だって触れたくもないCCA(機動戦士ガンダム 逆襲のシャア)」と書いてしまったが、ひとつ見方を変えればそれなりに面白いことを思い出した。

シャア総帥=富野監督だと捉えてみるのだ。

俺は神輿と担がれてるが、担いでいる奴らは本心から俺に敬服してるわけじゃない。
あの若手演出家(=ギュネイ)は実力も無いくせに俺の地位を狙ってる、若手同士で俺の陰口を叩いてる。舐めやがって。ガキども(=ハサウェイ)もピーチクパーチクうるさいだけで何の役にも立ちゃしねえ。お前らがどんだけ『ガンダム』(=クェス)好き好きといったって、『ガンダム』は俺のもんなんだよ。そうさ、生かすも殺すも俺次第さ。
スポンサー(=連邦政府)とか古参のファン(=アムロ)も勝手なことをいいやがる。『ガンダム』を好きにしていいのは俺だけなんだよ。見ろ、新しい『ガンダム』(=νガンダム)を作れるのは俺だけだ。
でも俺はもう『ガンダム』(=地球)なんてうんざりだ。隕石でも落としてぶっ壊してやるぜ。みんな、付いてこい! え、何? お前らは俺の言うことより『ガンダム』が大事なの? あー、今すぐ愚民どもすべてに叡智を授けてみせてぇ。

「シャア総帥=富野監督」という解釈はベタでありふれたものではある。
しかし上記のように、この解釈によって「CCA」の山ほどある難点に別の意味が見えてくるのである。

下士官パイロットに過ぎないのに誇大妄想に等しい大口を叩いて、しかも何の見せ場もないまま退場するギュネイ
・乱心して味方殺しまでやってのけるが、それは本筋とは全く無関係な出来事として扱われるハサウェイ
・「それはエゴだよ」くらいしか気の利いた切り返しのできないアムロ
・総帥という立場にありながら、敵にサイコフレームの設計を送るという利敵行為を働くシャア
・直前まで「隕石落とし」のために死力を尽くしていたネオジオン兵が突如心変わりを起こして隕石を支えるという気持ち悪いクライマックス(ネオジオン兵の立場に立てば、隕石落としの成就を見届けて感慨深く「男たちの魂の輝きだ…」というのが真情。「0083」はつまりそういう作品)

エトセトラ、エトセトラ。これらは一本の映画のプロットとして、戦争ものの設定として、戦時下の軍人の心情描写としてみれば、まともに評価できたものではない。しかしその評価をいったん棚上げし、シャア総帥=富野監督の映画として見ることで、あれやこれやがすんなりと理解できるのである。