富野アニメと「家系」についての覚書

なんとなく目に入って購入した『僕たちが愛した80年代ロボットアニメ』が思ったより面白かった。

冒頭、『ガンダム』や『イデオン』、『マクロス』に誌面を割いているからライト層向けのいつものアレを予想していたが(そしてある意味予想どおりだったのだが)、ガンダムシリーズに関するインタビュー記事が裏方というべきプロデューサーの内田健二だったり、80年代では『Z』の設定進行と『Z』『ZZ』のゲスト的な演出くらいしかガンダムに関わらなかった高松信司だったりと、人選がニクい。J9シリーズについて、山本優でなく四辻たかおに話を訊くとか、なんかもうセンスが色々と斜め上だ (私は知らなかったがこれ、2013年に出た本の再編集版らしい 栄光の80年代ロボットアニメ (タツミムック))。
 
そんな中でひとつ目を引いたのが、重戦機エルガイムについての記事。「当初の企画コンセプトでは『太閤記』に通じるようなサクセス・ストーリーだったという」と書かれている。いやコンセプトっつーか、実際の作品も途中までそういう話だったじゃないの……ってのはさておき、ああ、やはり「貴種流離譚」構造は後から紛れ込んできたものなんだなと改めて知る。

いやほら、『エルガイム』の途中までの富野アニメって、主人公は出自を行動原理にしてないんだよね。ていうか、出自や家系を行動原理にする人は敵と位置付けられ、負け続けたり打破されたりの運命にある。

重戦機エルガイムの前作、聖戦士ダンバインは特にそれが露骨で、ライバル役のバーン・バニングスが連戦連敗の己を恥じて言うセリフが「私は騎士の出のはずだ!」。騎士の家系という出自を理由にするのね。前半のキーパースン、ガラリア・ニャムヒーも父親の因果で蔑まれている。そうした階級社会が、主人公ショウ・ザマという異邦人(地上人)たちの干渉によって崩壊していく……というのが『ダンバイン』の物語の大枠のひとつ。家系とかは全く無関係にフイと現れた人なのに「聖戦士」と称えられ、実際に活躍しちゃうことが物語を動かしていくのでした。そもそもショット・ウェポンの存在がいわば「黒船」で、地方領主同士で小競り合いを繰り返している中世レベルのバイストンウェルが一足飛びで近代になった、という構図になっている。まぁ、中盤以降の路線変更でそのあたりは崩れてしまうのだけど。

ダンバイン』の前の『戦闘メカ ザブングルに遡ると、これはもっと単純な階級闘争で、支配する者イノセントはただ代々支配階級だったから支配階級であり、支配される者シビリアン(そのものズバリの一般市民だ)はそれをよしとせず叛旗を翻す。ただ、主人公のジロン・アモスは反乱軍のルールにさえ従わない身勝手な人物で、それこそが肝だから「単純な階級闘争」とは言い難いのですが、いずれにしても「家系」を拠り所にしてきたイノセントは打破される運命にある。

伝説巨神イデオンはどうか。ユウキ・コスモをはじめとする主人公たちはただ巻き込まれただけで、これまた出自を背景に持たない。その一方、事の起こりはバッフクランの総司令であるドバ・アジバの娘、カララが立場をわきまえない行動をとったことで、ここにもやはり「一般市民」対「家系が理由で偉い人」の対比がある。そして物語終盤では「イデ」という上位の存在が前面に出てくることで、家系や階級の矮小さ、ナンセンスさが映し出されていく。これが『イデオン』の眼目とも言えましょう。
http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20061106

機動戦士ガンダムについては以前取り上げたとおりで、ニュータイプという「人の革新」を描くのだから、主人公は血統を理由にしてはいけません。アムロ・レイに「家系」や血統が無い分はライバル役のシャア・アズナブルが補うわけですが、ええとまぁ、人気こそあれどアムロには決して勝てない、というのは周知のとおり。
http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20140528

『ダイターン3』『ザンボット3』まで遡るとまた面倒でワタクシに不都合なので(とくに神ファミリーは…)さておくとして、マァこんな具合で『ガンダム』から『エルガイム』の序盤まではひたすら市民革命的というか、「家系」を偉さの根拠とする偉い人は衰退し、一般市民の出の主人公が乱世を戦い抜いて新時代を作る話、なんですね。それがどうして『エルガイム』中盤以降はああなってしまったのか、非常に気になるところです。メインライターの渡邉由自か、あるいは世界観の構築に重要な役目を果たしたという永野護が、あんまり深く考えずに「設定をいじる」程度の感覚で変えたのだ〜というのが、割と納得のいく答ではありますが。