「詩と語りと芝居で紡ぐ 智恵子抄」

という舞台を観てきた。ゆーりんプロ制作、内幸町ホール、前売りで4000円。同じ演目でプロデュース公演と新人公演があるうち、私が観たのは新人のほう。
(↑去年のコピペ http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20150412

さて御多分にもれず私も、『智恵子抄』といっても「智恵子は東京に空が無いという」(あどけない話)くらいしか知りません。詩集が原作で舞台? 何やるの? と気になって、事前に原作を予習しておきました。

Kindle版は無料。するとこれ、47作品の詩が収録されているうち、はじめの作品は明治45年7月作、最後は昭和27年11月で、つまりひとつの詩集の中で40年余の歳月を重ねている。詩の主題は常に智恵子で、出会った頃の作者・高村光太郎の心情描写から始まって、二人の同居の開始、智恵子の精神分裂症の発症、療養そして他界といった大きな出来事が詩の形で刻まれている。一冊の詩集にして一本の物語となっているわけです。

そうした原作の流れを踏まえる形で、光太郎のおいなどが【語り】で状況を解説、光太郎と智恵子その他の人物が登場する【芝居】で物語を進め、各場面に応じた【詩】の朗読が差し挟まれる…というのが今回の舞台の構成。これがつまりタイトルにある『詩と語りと芝居で紡ぐ』という趣向です。

たとえば智恵子臨終の場面などは、【芝居】での描写によらず、看護婦である姪と主治医が状況を【語り】で聞かせるという、なんというか突き放した感じのもの。アッサリし過ぎでは? と思っているとそれに続けて、智恵子が生前に漬けた梅酒を光太郎が見つけた、という場面になって「梅酒」という【詩】を光太郎が朗読します。その詩にこそ光太郎の心情が凝縮されているから、芝居の部分はあえて抑えめにして際立たせたのでしょう。

とはいえ芝居の部分が軽視されているわけではもちろんありません。智恵子が周囲の人物に厳しく責め立てられ、心が折れて、ついに精神分裂症を発症する場面などは、智恵子の中のイメージである人物たちが実際にその場にいるかのように描写。マァ実際に舞台の上に役者さんがいるわけですが、責め方が容赦無いだけでなく、智恵子自身の狂気にも鬼気迫るものがあって、この場面はムチャに恐ろしかった(智恵子が発症に至る経緯は本人の手記などが残っているはずもなく、また客観的な史料も十分でなく、だからこそ創作で補ったという経緯もあるのでしょう)。

いやもう、その場面に限らず智恵子の人物像は複雑で、「光太郎の精神的な支柱となり、貧しい生活にも文句を言わない心優しい女性」だったのが後半は「現世に心を閉ざし、光太郎をすら怒鳴り散らすわがままな狂女」になり、さらに結末に至っては「光太郎にとって観音様にも等しい存在」にまでなるのですが、そんな智恵子を石原佳奈さんは演じ分けつつも一人の女性として演じる、という力のこもった芝居を見せてくれました。光太郎役は、去年の「眠れる森の魔女」ではアトスを演じた眞對友樹也さんで、こちらもさすが作品の要となるどっしりとした芝居。私がそもそもこの舞台を観るきっかけである杉山里穂さんは智恵子の親友・田村とし子役で、出番は少ないのですが「実は智恵子に対して友情以上の感情を抱いている」という微妙な人物を好演されてました(さりげに「妬けちゃうな」とか言ってるけどそれマジでしょ? 的な)

あえて不満を言うなら、「光太郎は何がスゴイ人なのかわかりにくかった」という点でしょうか。原作『智恵子抄』は光太郎の視点だから当然ほとんど描かれないのですが、この舞台は基本、光太郎の甥の視点(語り)なのだから、その距離で見た光太郎の創作活動そして作品がもう少し描写されていれば、と思います。もっとも、主題である「光太郎と智恵子の愛」は十分以上に描かれているのだから、その人物像こそが光太郎だと受け止めればよいのでしょう。

舞台という性質上、「みなさんもぜひ一度ご覧ください」とは言い難いのですが、ともかくも観に行って良かったと思えるものでした。