「俳句 −十七字の世界−」第2週#1

以下、動画を見ながらのメモなので他人が読んでもほぼ意味がない。すまん。効果的な学習法を模索中なので。



2-1
歌ことばと本意。
発句の独立と開放性。
平俗性と意外性。→これを重点的に扱う。かつて「俳言、俳意」と言われていたもの。
芭蕉が得意なのは連句俳諧連歌)。
アイデンティティは「俳言」漢語、仏教用語、漢語、当世語
(松永貞徳)全ての句に俳言を入れる。歌ことばとの不調和。滑稽さ、「俳諧性」を生む。

「俳言でなく「俳意」」乾裕幸。言葉の種類の問題ではなく、どんなふうに二種類の言葉を組み合わせるか。歌語と俳言の組み合わせが相互作用を生む。作用・反作用のダイナミズムこそが俳諧である。

だが、歌語と俗語が衝突しあっているとは限らない。
五月雨(さみだれ)に鳰(にお=かいつぶり)の浮巣(うきす)を見に行む
俳言がない俳句。読み手の物好き、酔狂、度を越した風雅さが俳諧である。
 
2-2
「行きて帰る」の論(服部土芳) 構造的に二つのパートに分かれる。それを行きと帰りと呼んだ。
山里は万歳遅し 梅の花
「山里は万歳遅し」は平句の類。
「山里」は歌語。寂しいがそれ故に安らぐ場所。山村、田舎、在所、村里ではダメ。これらは歌語ではない。
「○○遅し」も和歌の定型(ex.春遅し、花遅し、鶯遅し)。だがそこで「万歳」
という俗な言葉、風習が入る。優雅な調子をかき乱すことに俳意がある。
山村では春になっても万歳が来ない。
だが俗とはいっても、現代生活においては風雅な季節感の表れと言える。当時の人々にとってそれは実感のある季節感であった。
 
2-3
梅の花」とは何か。土芳いわく、帰りの部分である。
和歌と近世のまぜこぜの取り合わせの妙が「山里は万歳遅し」。
だがこれは嬉しいのか、不満なのか? それがどうした。何が言いたい?(誌的意義は何か)……これだけでは「行ったきり」で帰ってこれない。そこで「梅の花」。

梅の花は「咲いた」。「梅の花」は古来より珍重されており、立派な歌ことばであり、季語である。これが入ることで、この句の意義の方向性が見えてくる。

「行き」 伝統を踏み外した意外な表現で読者を引きこむ(新しい世界に連れ出す)。
「帰り」 なじみ深い伝統的な情緒の世界に連れ戻す
行き帰りとは二重構造である。

「脇が甘い」は「懐が深い」

「山里」「万歳」「梅の花」〜雅・俗・雅の相互関係のダイナミズムが俳句である、というのが乾先生の説明。だがそれでは説明が付かない俳句も多々ある。

「ふつうの言い方からの逸脱」、食い違いとか過剰が生み出す面白さ、文体効果こそが俳句ではないか。雅俗の間を揺れ動くだけでない「二重構造」。それを成立させるため、帰りの部分ではなるべく手短かに全体の意味づけをしようとしている。
 
2-4
俳句は「基底部」と「干渉部」の2つの部分からできている。
「山里は万歳遅し」だけではひとえ(一重)であり「平句の位」(俳諧連歌における発句以外の句)である。前の句か、後ろの句か、どちらと組み合わせるかによって区全体の意味が変わる(1つの平句だけでは最終的な意味を成さない)。

対して発句は、平句の2句同士の関係を一句に詰め込んでいる。なので独立することができる(土芳の論)。

俳句は……
文体・表現の面白さを眼目とする「基底部」と
誌的意義の方向付けをする「干渉部」から成る。
(川本先生が提唱する説)

多くの句はまず基底部ができる(強力な文体特徴、ダイナミック、普通でない、意外な、魅力的な言い方。読者を刺激して考え込ませる)。
基底部だけでは「平句」。

そこに言葉を添えて句全体の意味の方向付けをするのが「干渉部」。ただ、単独で意味を決めるのではなく、基底部との協調・重複・反発・対立などの中で意義を暗示する。
歌語≒季語が多用される(それを出すだけで方向性が伝わる言葉だから)。

芭蕉は「基底部」については「表現の斬新さ」を、「干渉部」については適切さを重視している。