東京駅を洋風建築にしたのは誰か

もういっちょ(前回は2月15日付)、戦前の雑誌に描かれた東京駅の話題。
今回は『話』誌、昭和8(1933)年4月号掲載の「東京駅物語」という記事です。執筆は高田晋、津田尭画によるカットが3点。どちらも詳細不明。
私はこれまでにも何冊か東京駅の歴史についての本を読んでいるのですが、そのどれにも書かれてない話がこの記事にはいくつか出てきます。
東京駅は元々は和風建築(日本趣味の強い和洋折衷)で設計されていたのが、洋風に改められたという経緯があります。その理由は関心の高いところですが、『東京駅誕生』(asin:4306093131)は「当時のわが国の風潮は、おおいにヨーロッパ崇拝の時代であって、丸の内にある東京の玄関に統日本式の建物を採用することは歓迎されなかった」、『図説 駅の歴史』(asin:4309760759)は「当時の鉄道関係者には受け入れられなかった」「建築様式に和洋折衷の意匠を取り入れるという提案は却下された」と書くのみで、誰が判断したかが詳らかでない。
ところがこの「東京駅物語」、明治天皇の意見によるとしています。

初め当時の後藤鉄道院総裁は千代田城の前に造るのだから桃山風の御殿造が良いと云うのでその設計を終え畏くも明治大帝の天覧に供したところステーションの如きは外国式がよいとの言葉を賜り今日のルネッサンス風に改めたのだと初代の高橋善一駅長が語っていたのをきいたことがある。

「明治大帝」からお言葉を賜ったのならば、事実性はさておき伝説として語り継がれてもいいようなものですが……。しかもそれを伝えるのは、間接的とはいえ高橋善一ですから、まず信頼性はある。なのに、どうも他では聞かれない。これ以外の何かに「お言葉」のエピソードは無いのでしょうか。
 
さて、天覧に供した後藤鉄道院総裁とは、あの後藤新平です。この人についてもまた知られざるエピソードが出てくる。東京駅(中央停車場)の建設地は失敗だったと言ったそうな。

ところが当の後藤新平伯は震災後述懐して云うには中央停車場を丸の内に造ったのは失敗だった、あれは新宿にすれば良かったと言っていた。

後藤は震災後の東京復興について都市計画を主導した人ですから、その際にターミナルステーションの配置について思うところがあったものと思われますが、この話もどうもよそでは聞かれない。新宿では、皇居(この記事では千代田城)から遠く離れますから、必定、「天皇が乗り降りする駅」としての性格も現実の中央停車場(東京駅)とは相当に違っていたはずですが、後藤はどう考えていたのでしょう。
(続く)