猥の悲劇

昔、コメント欄のほうにですが「改めて考えるに、「卑猥」「猥談」だとエロ方面限定なのに「猥雑」だと範囲がぐっと広がるのが面白いですね。」てなことを書いております(2007年9月8日付)。それを踏まえて雑誌『創』4.5月号、「ぢぢ放談」での永六輔の発言。横綱の注連縄は巨根信仰の名残だ、という話の流れでこう言っています。

モンゴルの学生は「朝青龍のオチンチンは神様なんだ」って感心してたからね。猥雑さも文化です。

とまあ、卑猥の猥の含みを持たせて「猥雑」の語を使っている。誤用であるとかないとかいうよりも、猥雑の語をそういう意味で、相当にお歳を召した元放送作家のエッセイストであるところの永六輔が使っているのが驚きでした。
ついでに、『創』も永六輔も関係無い話をひとつ。『頓知』という雑誌で、誰だったか落語家だったと思いますが、「ひとりよがりという言葉を若い女性まで平気で使っている。元々どんな意味だったか忘れられてるんですね」てなことを言ってました。この発言者が「元々どんな意味」のつもりかは察しがつくのですが、でもなぁ、これって単に「独善」の訓読みなんでないの? 「善がる」が意味するもののひとつがアレというだけであって、「独善」がそっちのほうからきた言葉だとは、にわかには信じがたいのだが(めんどくさいのでこれ以上は調べてない)。