[脱近代]ポストモダン(脱近代)の福音伝道師

「随分古くさい対立項の取り方だな」。それがまず、村上春樹エルサレム賞受賞スピーチの第一印象だった。

大文字の「System」と「個人」を対立項とし、国家・民族・宗教といったシステムに呑み込まれることなく、個人として他者と、ひいてはシステムと対峙しろと言う。そこに私は、懐かしき80年代ポストモダン(脱近代)思想を連想せざるを得ないのだ。極東ブログというブログがSystemを「大いなる制度」と訳したのも、ポストモダン用語の「大きな物語」を意識してのことだろう。実際、意味するところもほぼ同じといっていい。

私たち日本人は脱近代の今を、システム=大きな物語が失われた後の時代を生きている。それをまず、コンセンサスとしたい。脱近代さえ過去となり、現代は脱ポストモダンだと言う学者も少なくない。社会学者・鈴木謙介は、現代日本の若者は生まれたときから「大きな物語」を知らずに育ち、それがどういうものかもわからずにいる、とまで言っている。

「システム対個人」論はそれほどに古くさいのだ。

しかし村上春樹が、まさかそうした現代思想を知らないとは思えない。なのに何故、その持論を開陳したのか?

「さて、翻ってイスラエルではどうか?」。ここである。これがスピーチの肝だ。「日本とは違ってシステムは厳然と存在し、個人に戦いを強いているではないか」。村上春樹はそう見たのだろう。だから戦いやまぬ約束の地に、未だ野蛮な近代のままでいる土地に、一時代先の脱近代という福音をもたらした。直接は語っていないし、あるいは無意識的なのかもしれないが、ここには日本とイスラエルとの対照がある。

脱近代の日本から来たからこそ、周囲の制止を振り切ったからこそ(すなわち、彼を取り巻く小システムの干渉を排除できたからこそ)、個人・村上春樹だからこそ、「個人たれ」と言えるのだ、と。

仮に村上春樹の言でなければ、イスラエルの人はおそらくそれを、遥か海の彼方の、個人が個として生きられる平和な国のおとぎ話と受け止めただろう。壁ならぬ現実の砲弾の前に、卵ならぬ人間は無力なのだから。

けれど、村上春樹だ。彼は村上春樹だ。自身、スピーチでも言うとおり、小説家は元よりシステム外の存在(トリックスター)だし、嘘つきのプロである。そうした自意識を背負っていたからこそ、日本では古くさくイスラエルでは嘘くさい「システム対個人」論を、それと承知で堂々と訴えることができたのだろう。

「日本の」「小説家が」「イスラエルで」語るべきことを全て語ったスピーチだと、賞賛されるべきと思う。



昨日付けのエントリ、近況報告で終わらせるつもりが「村上春樹」だの「エルサレム賞」だので検索あるいはリンクをたどってくる人が多いので、本文もupしてみた。なんつーかその、「ポストモダン的状況が共通了解事項である」という前提で書いているため、そこらへんを共有してない人にはおそろしくわかりにくい話になっていると思う。

そこらへんを踏まえて、「村上春樹は何を今さらSystemとか言ってんの?」という人を対象読者と想定して、「日本の」「小説家が」「イスラエルで」語るべきこととは何だったかを還元的に詳らかにする分析とまとめてみた。