深刻だが真面目でない〜シリアス展開に思うこと

今まで一度も感想を書いてなかったけど夜ノヤッターマンは毎回観てまして。んで、第4話が終わった段階で「うわあ、こんなとこに踏み込んだら余程うまくやらないと踏み外すぞ…」と思っていたら第5話でいきなり踏み外してズッコケたのでした。

いや、だっておかしいでしょ? 第4話がああだったんだから、第5話も最後には「あの相撲少年は羊もおこづかいも結局取り上げられてしまいました。ちゃんちゃん」で終わんないと。あの調子で何となく「めでたしめでたし」で終わらせるなら、例えば新しい敵幹部を出して「賞品を後から取り返すなんてみっともない真似ができるか!」とでも言わせりゃエクスキューズになったはず。なのに、檜山声がそのまんま出続けていたから不自然このうえ無い。

『艦これ』もだけど(あっちはもっと酷いけど)、キャラクターをひとたびseriousな……深刻な状況に放り込んだのに、真面目さ……seriousさというか「リアリティの水準」がそれに伴ってないんだよな。

んで、『夜ノヤッターマン』第4話が終わった時点で危惧していたのはこんな短期的なことでなくて、1クール(それとも2クール?)のシリーズとしての締め方。リアリティの水準をああも上げてしまったら、最後に「ヤッターマンにデコピン食らわしたのでキングダムの住人は幸福に暮らせるようになりました」なんて単純な幕引きにはできない。

それどころか、そもそもドロンジョが幼女であることすらも問題として浮上してくる。ヤッターキングダムは本来「正義だと思っていたものが実は悪だった世界」のはずなのに、大元の正義の規定が無いから。だって主人公が社会経験のない、優しい母親とその従者たちに守られていたいわば箱入り娘だよ? お話に聞かされた正義しか知らない幼女。だからヤッターキングダムで何を経験しようと、それは善悪の逆転とか相対化にはならんのよ。善だ悪だという以前、「幼女が初めて知る社会の理不尽」にしかならないのよ原理的に。

第4話みたいなことをやらなきゃそんなこんなツッコミは回避できたのに(「ヤッターマンにデコピン食らわしたのでキングダムの住人は幸福に暮らせるようになりました」という単純な幕引きにもできた)、そこらへんコントロールできてないんだよな……。ていうか『フェブリ』のインタビューを読むに、ただ単に空気感やノリ、テーマを回ごとに変えるバリエーションのひとつで第4話のような話をやったそうで、コントロールする気も無いという。

Febri (フェブリ) Vol.27

Febri (フェブリ) Vol.27

ふでやすかずゆき脚本の過去の例でいうと、『ゾイドジェネシス』の無敵団の扱いなんかは見事なものだったじゃないの。「実は生きていた」というコメディタッチの描写(リアリティの水準の低い描写)で視聴者にはストレスを掛けず、その一方主人公であるルージの視点では無敵団は全滅しており、シリアスさを維持していた。
http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20050731
このバランス感覚というか技巧を失くしたんだろうか…。