堀越から糸川への手紙の謎

群馬県の藤岡歴史館に、ゼロ戦の設計者として有名な堀越二郎から、一式戦疾風の設計者であり戦後は日本の宇宙開発をリードした糸川英夫に宛てた手紙(の写し)が収蔵されている。一昨年の夏、企画展でそれを見たのですが……。

これ、双胴形戦闘機の設計について糸川に意見を求められていた堀越からの返信という内容で、形状にしても時期にしても閃電としか考えられないのですが、当時、東京帝国大学助教授だった糸川がどうして閃電を作っている三菱に勤める堀越に意見を求めたのか? かなりのナゾです。
http://d.hatena.ne.jp/UnKnown/20130721

そのナゾに、一応の答が得られました。今発売中の雑誌『丸』の閃電特集です。

丸 2015年 03 月号 [雑誌]

丸 2015年 03 月号 [雑誌]

日本の双胴戦闘機それも昭和18(1943)年といったら、私はイコール閃電だと思っていたのですが、他にも2機種あったという。ああ、3機種もあったというなら話はわかる。立川飛行機のキ94(初期)か満州飛行機のキ98のどちらかに糸川も携わっていたか、携わってはいないが関心を持っていたか、なのでしょう。3機種とも同時期ですから当時の技術者たちの間で双胴戦闘機が流行していたのかもしれません。三菱でも双胴機が計画されていると知って旧知の堀越に「フラッター現象はどうするの?」云々と意見を求めたと推察されます。考えてみれば、直接顔を合わせての打ち合わせでなくあくまで手紙、イラスト付とはいえ基本程度の説明だから、当人たちにはさほど重要では無かったのでしょうね。