「契約」はイコール「コントラクト」でないと専門家が言う

「言わんとすることはわかるが、それは例えが違うよ」という話。

「全私学新聞」という業界紙がある。主な対象読者は私立学校経営者、というニッチにもほどがある業界紙なのだが、縁あっていま私の手元にその4月13日号がある。

その4面、中央大学佐藤信行副学長の講演をまとめた記事が、少々おかしいのだ。

ユーストリームアジアの芦澤慎一氏の、「国境を越えてコンテンツビジネスを展開する際には、もめないようにするために利用契約書と契約書が必要だ」という話を受ける形で、佐藤氏は「法は本来的にドメスティックなものであり、契約もどこかの法によって必ずコントロールを受ける」、だが「契約書を作成する場合、法中立な言語はあり得ない」と言う。だから大学は「これらを理解した上で処理法系を選択できる、あるいは問題を設定できる人材」を養成すべきだ……と言っている。

言わんとすることはわかるのだが、途中に折り込まれる例え話がこんな調子なのである。

具体例では、日本語の「契約」に対応する意味の英語は「コントラクト」。しかし「コントラクト」の要素にはコンシデレーションが含まれる。コントラクトは、契約時にお互いさまの状態でなければならない。例えば"あげる""もらう"という単純贈与契約の場合、いったん契約が成立しても"あげる"方はいつでも無条件に契約を撤回できる。これがコンシデレーションの欠如という要件である

何を言ってるんだ、この先生は?
いや、言っていることの意味はわかる。
だがそれは「"あげる""もらう"という慣例にはコンシデレーションが欠如している」という話だ。それを言い換えて(あるいは拡大解釈して)「単純贈与契約にはコンシデレーションが欠如している」までなら言ってもいいが、日本語の「契約」全般についてのことでは決してない。

ていうか、日本語の「契約」と英語の「コントラクト」との間には原理的に意味の差があるはずがない。明治に入って近代法を整備する段階で、contractの訳語として「契約」という言葉を当てはめたのだから。

明治生まれの訳語の中には、時代を経るにつれて元の外国語との間にニュアンスを生じたものもある。また、そもそも外国語を正しく理解せずに「翻訳」してしまったケースも少なくない。だが、法律用語であるところの「契約」がそれらのひとつであるはずがない。条文や法解釈というレベルならばともかく、根本的な用語の意味が違ってくるようでは、そもそも何のために明文法を定めるのかという話になってしまう。

contractの訳語ではない「契約」について言うのなら、話はわかるのだ。Yahoo辞書(大辞泉)で「契約」を引くと、2番目に「約束を取り交わすこと。また、その約束。『日来の―をたがへず、まゐりたるこそ神妙なれ」〈平家・二〉』」とある。この、古語の「契約」ならばまさしくドメスティックな用例であり意味だから、contractとの差異に十分な注意を払う必要がある。

だが、ここで言っているのは1番目、「二人以上の当事者の意思表示の合致によって成立する法律行為」のほうであり、くどいようだが法律行為としての「契約」はすなわちcontractなのだ。
 
いやもう、言わんとすることはわかる。わかるんだよ。
Yahoo辞書(eプログレッシブ英和中辞典)で、今度は"contract"を引いてみる。


 (1)(法的規制力をもつ)契約(書),約定
 (2)請負(仕事)
2 結婚の契約,婚約.
3 トランプコントラクトブリッジ(contract bridge).
4 (略式)殺人の契約
5 (俗)贈賄.

日本語の「契約」には2〜5の意味は無い。英語のcontractを誤解しないためには、こうした部分まで知り、言葉のルーツを理解しておく必要があるのだろう。
例えば「コントラクトは、契約時にお互いさまの状態でなければならない」の例として、「この言葉は『婚約』を意味することがあるくらいだ」とか言うのはどうか。ああなるほどね、お互いさまねと相手をわかった気にさせることができるのではないか。
だけど、何度だって言うが、法律用語としては1の(1)、「(法的規制力をもつ)契約(書)」であり、それは日本語の法律用語の「契約」と同義である。
 
言わんとすることはわかるし、それはとても重要なことだとも思うのだが、しかし適切な例で説明しないことには主張全体の説得力が失われかねないだろう。