夏草も無ければ線路も無い/東武熊谷線跡

前回のあらすじ・熊谷で遊歩道に行き当たって廃線跡だろうと思った】
とりあえず秩父鉄道の分岐点まで行ってみる。

ひゃくごめづか? いや、100メートルポストといったところか。何に由来するかわからない。「百米塚」でググるとこれしか引っかからないので、たぶん「一里塚」とか「キロポスト」に着想したオリジナルなのだろう。
ただしこの百米塚、始点・100M地点・200M地点の三つしかなくどうにも中途半端。

踏切の警報機のようなモニュメント? も立っていたが、元は二つあったうちのもう一方はボロボロ。こんなものがあるからにはやはり廃線跡と推察されたが、この段階ではまだ由来はわからなかった。
最初に通りがかった地点にまで戻りつき、さらに進んで「石原公園」の一角に入る。
そして、駅舎風と言われりゃそんな気もするあずまやと……なにやらコンクリートの塊が見えてきた。

「かめ号」? かめ号…聞いたことがあるような無いような。

「妻沼←→熊谷」……ああっ!
これは富嶽 もとい不覚!!
ここは、東武熊谷線、通称妻沼線の廃線跡だ!

東武熊谷線
熊谷線(くまがやせん)は、埼玉県熊谷市の熊谷駅から大里郡妻沼町(現・熊谷市)の妻沼駅までを結んでいた東武鉄道鉄道路線。地元では妻沼線(めぬません)とも呼ばれていた。
(略)
もともと軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期(1943年(昭和18年)12月5日)に、群馬県太田市中島飛行機(現・富士重工業)への要員・資材輸送を目的として、熊谷駅 - 東武小泉線西小泉駅間の建設が計画され、第一期工事区間として熊谷駅 - 妻沼駅間が開業した。
(略)
開通以来赤字続きだったこともあり、廃線の話は幾度となく東武鉄道と沿線自治体の間で話し合われ、1983年(昭和58年)6月1日に廃線となった。
(略)
東武熊谷線 - Wikipedia】より

昨日のエントリの中島知久平の部分には全くリアクションがなかったが、この熊谷線は中島飛行機あっての路線である。故に「富嶽」などとボケてみた。
閑話休題
熊谷線のことは知っていたのに、実際歩いてみてもしばらく気付かなかったのは、ひとつはもちろん私の勉強不足なのだが、「イメージと違う」という理由も小さくない。私はこれまで単線のローカル線の廃線跡をいくつも歩いてきているが、それらに比べてあまりにも横幅が広すぎるのだ。これについてウィキペディアには「東小泉駅 - 熊谷市石原付近まで複線化用地があったが」と書かれている。
 
さて。私はゴクロウなことにここから妻沼まで10km強を歩き通してしまったわけだが……。
結論から言おう、ぶっちゃけぜんぜん面白くなかった。
かつての鉄道路線を偲ばせるものは無きに等しく、中途半端に道路として整備されており、しかも元は田園を一直線に突っ切るように敷設された路線なもんだから、沿線の町並みを眺める楽しみすらない。そのうえ季節柄、堆肥の臭いがしばしば鼻を突く。
廃線跡のレポートは、下記URLなど詳しいサイトがあるので、もうそちらを見ていただければこの上私が何を書く必要も無いのではないかと思う。
【おがえもん廃線研究所 東武鉄道熊谷線】
http://www.ogaemon.com/haisen/tobukumagaya-sen/tobukumagaya-pt1.html
まぁそれでも一応画像を上げていく。

石原公園を抜けて、県道200号線と交差する手前。ここでようやく「かめのみち」という遊歩道の名前が出てくる。柱はレールの形を模しているのだが、しかし一切の解説無しで鉄道車両っぽい集会所とか、レールっぽい柱とかを建てても何のモニュメントにもならないと思うのだ。

高崎線が横断するところで「かめのみち」は分断。簡素な歩道橋でも渡せばいいと思うのだが……。北側の、南向きの法面には植木で「クマガヤ」と書かれている。

西のほうの道へ遠回りして、踏切を渡って高崎線の北側へ。先ほど立っていた位置を眺める。


国道17号線(中山道)と交差するちょい手前には、金属製のしっかりしたプレートに「かめのみち」の名と併せて、東武キハ2000系の姿が描かれている。遺物がほとんどないだけでなく、「新たに作られた記念物」もこれが最後だった(最後の最後に妻沼展示館があるが)。

沿線の、もとい沿道の柵が鉄道タイプで、これはおそらく熊谷線現役当時のままだと思うが、でもまぁそれが嬉しいかといわれりゃそんなことはないわけで。

埼玉県立熊谷農業高校の敷地にさしかかるところに、白い看板。うっすらと「かめのみち」の解説が書かれているようにも見えるが、ほとんど判別不可能。
先ほどURLを載せた【おがえもん廃線研究所】にはちゃんと読めた頃の画像がある。……ひょっとして、落書きを消そうとしたら本文まで消えてしまったのではなかろうか。

牛。農業高校で飼っているものだろう。

農業高校の敷地の北端付近で「かめのみち」は終わり、自動車も通る道になる。きれいに整備された生活道路なのに、家並みはこちらを背面とし、勝手口さえ無い家があるのが面白い。こんなところに鉄道路線という前身が感じられるわけだが、でもまぁそれが嬉しいかといわれりゃそんなことはないわけで。

道は途中から工事中になる。ただ、左側の家などは開通を見越して建てているし、歩道はほぼできているので、じきに開通するものと見受けられた。


かつて踏切があったと思しき場所には、おそらく古枕木を転用したであろう柱というか杭が見られた。鉄道らしい遺物という遺物は、全線を通してみてもこれくらいしかない。
廃線跡はやがて農道扱いとなるが、その区間にも廃線らしさは残っていなかった。

写真中央の丸い木柱には黄色と黒で縞に塗られていた痕跡があり、これもおそらく踏切への注意を促すものだったのだろう。場所は大乗院というお寺の北北東。驚いたことにGoogleストリートビューでも確認できる。


東武熊谷線 - Wikipedia】に「今でも水田の中にある杭までが東武鉄道の所有地である」と書かれている、その杭と思しきもの。ただしここは水田ではなく麦畑だった。

ごく一部だけほとんど整備されていない区間があるが、だからといって鉄道廃線跡らしいかというとそうでもなく。
県道341号線と交差した先はまったくただの道路と化しており、まったく面白くないうえにやたらと長い。

道路と道路が並行している区間などには鉄道路線という前身が感じられるわけだが、でもまぁそれが以下同文。
こんな調子で、廃線跡紀行というにはあまりに退屈で、しかも中途半端に長い旅だったのだが、ゴールにあれが待ち受けていればこそとモチベーションを失うことなく歩き続けることができた。つづく。