他人の人生

向かいの部屋の住人が、夜逃げしたのか拉致されたのかいつの間にかいなくなっていた。
大家さんもようやく気付いたのだろう、昨日、ドアが開け放たれて、残されていた家財道具の運び出し……というか、廃棄物の処分が行われていた。
去年の今頃までは毎朝のように、母親が幼稚園児の子供を怒鳴りつける声が聞こえたものだ。幼児虐待、スレスレだったかもしれないが、そんな怒鳴り声が私の耳にまで届いてきたのは、毎朝ちゃんと幼稚園へ子供を送っているからこそ。母親も子供も、私とすれ違えばきちんとあいさつしてくれるし、少しばかり厳しい母親なんだろうと思っていた。
ところがそれが、パタっと聞かれなくなった。気にしてみると、駐車場の車が見えない。だから初めはどこかへ旅行にでも行っているのかなと思っていたが、その後二度と怒鳴り声を聞くことも、母子を見ることもなかった。
それならそれで、じゃあ引っ越したのだろうと思うところだが、部屋にはひとり住人が残っていた。夜になれば明かりが灯る。顔を見かけたのは一度きりだが、それはどうやら旦那さんらしい。あるいは、元旦那。
その後も、はっきりとは覚えていないが、というかそもそも観察していないのだが、秋口ぐらいまでは多分ひとりで住み続けていたようだ。
そしていつの間にか、そのひとりもいなくなっていた。
夜逃げしたのか拉致されたのか、私には知る由もなく、無論どこへ行ったかも知らない。
ただ、不在を知るだけだ。
ろくに顔を合わせたことのない、いてもいなくても私には関わり無い他人の不在。ああ、そういえば名字さえ知らないのだ。表札を掲げていないから。
だからすぐにでも忘れることができるし、覚えておく必要も無い。
ただひとつ気がかりなのは、外階段の下に置いたままの自転車だ。深いブルーの、まだ新品の補助輪付き自転車は、あの子のものなんだ。
これも一度見たきりだけど、楽しそうに漕いでいたのを覚えている。