アイヌと義経、ドゴンとシリウス

大河ドラマ平清盛』が完結、ということでひとつ源義経の話。

1880年、今は小樽市総合博物館があるあたりに北海道初の鉄道が開業しました。そこを走った機関車の名前は「義経(義經)」とか「弁慶(辨慶)」という。

なぜ義経かといえば、源義経は衣川で討たれることなく蝦夷地にまで落ち延びた、という伝説に由来します。だから蝦夷にゆかりのある人物として扱われ、機関車にもその名が付いた。弁慶や静は、マァ義経の付き添いですな。

悲運の英雄の「実は生き延びていた」伝説を引っ張ってくるなんてロマンチックだな〜、なんて捉えてしまいそうですが、そんなノンキな話ではない。

1号機関車が「義経」2号が「弁慶」ときて、3号は「比羅夫」。4号「光圀」はぎりセーフだとしても5号は「信広(信廣)」です。「比羅夫」は蝦夷を討ったと『日本書紀』に名を残す阿倍比羅夫、「信広」はコシャマインの乱を鎮圧した武田信広に由来する。つまり、蝦夷地=アイヌと対立して打ち倒した、中央の人間の名が付いているのです。「義経」もそれと同列と捉えられていた、とみるべきでしょう(ちなみに「光圀」は徳川光圀蝦夷地の調査を指揮したことに由来します)。

ところが義経については、アイヌの側もまた好意的だった、という興味深い記録が残っています。以下はいずれも『イザベラ・バード日本紀行(下)』(asin:4061598724)より引用。
平取でのこと、病人に親切にしてくれたお礼に、とバードは義経神社を見ることが許されました。

ここでわたしは山間アイヌの偉大なる神に引き会わされたのです。海戦での手柄ゆえにではなく、たんに義経が自分たちにやさしかったと先祖代々伝えられているゆえに義経を忘れまいとするこれらの人々には、どこかとても哀れなものがありました。
(「第四一信(つづき)」p100。強調は引用者)

「先祖代々伝えられている」……? はて、義経神社の建立は1798年。バード訪問時から数えてせいぜい二世代前です。
つまり、近藤重蔵がこの地に義経神社を建てるより遙か以前から、アイヌの間には義経伝説が伝わっていた? いや、そもそも近藤重蔵だって義経伝説を聞き取って神社を建てたというではないか。バードが聞いた話こそ、義経蝦夷に渡ったという証拠だ!!
……というのも面白いのですが、あいにく私はそこまでそそっかしくはない。
もうちょっと引用します。

彼らは生物・無生物を問わず自然を賛美しますが、その唯一の例外が義経への崇敬と思われます。義経に対してはたいへん恩義を受けていると信じており、いまだに自分たちの味方をしに現れてくれると考えている人々もいるのです。
(「第四二信(つづきその二)」p126)

この部分の注として、以下のように書かれています。

義経は日本の歴史上最も人気のある英雄で、少年たちの特別なお気に入りである。義経は頼朝の弟で、頼朝はその武勲により一一二九年に天皇から征夷大将軍(未開人を征服する大いなる将軍の意)に任ぜられ、最初の将軍となった。
(略)
頼朝の武勲の栄誉は実は義経に帰すべきもので、義経は頼朝の妬みと憎しみを受けるようになり、国から国へと追われ、一般に信じられているところによれば、ついに自分の妻子を殺したあと切腹する。
(略)
義経蝦夷に逃げのび、アイヌとともに長く暮らしたのち一二世紀末にそこで死んだと信じる人は多い。アイヌはこの説を誰よりも強く信じ、義経は自分たちの先祖に文字や数とともに文明的な技法の数々を教え、公平な法を与えたと主張している。法の師を意味する名前で義経を崇めるアイヌは多い。わたしは平取、有珠、礼文華の老人たちから、技法を書いた本はのちに蝦夷を征服した日本人が持ち去ってしまった、義経の生きた時代は遠くなり、技法そのものも廃れてしまったので、アイヌはいまのような状態に落ちぶれてしまった(!)と聞いている。なぜアイヌはナイフや槍と同じように鉄製や粘土製の船をつくらないのかと尋ねると、返ってくる答はきまって「日本人が本を持っていってしまったから」である。
(「第四二信(つづきその二)原注」p407。強調は引用者)

日本人・日本政府には敵意を持っていて、一方で義経にはたいへんな恩義を感じています。バードが、実際に聞いてもいない話を注釈に書くとも思えず、やはりアイヌの老人たちはこうした話をしていたものと思われます。
となるとやっぱり、義経蝦夷に渡っていたのか!?
さて、私がここで連想したのは「ドゴン族はシリウスBの存在を知っていた」説でした。……ようやくタイトルに話が至ったよ。

シリウス
マルセル・グリオールはドゴン族の盲目の智者オゴトメリに取材した内容を元に、ジェルマン・ディータレンと共著で『スーダン原住民の伝承によるシリウス星系』を発表した。その研究論文では、天体の運行の秩序はシリウスの三連星のうち、宇宙で最も小さく、それでいて最も重いディジタリア星がもたらしたというドゴン族の神話を紹介している。ヨーロッパにおいてシリウスが連星であるとの説を最初に唱えたのはドイツの天文学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルで1844年のことであり、シリウスBの姿を最初に観測したのはアメリカの望遠鏡製作者アルヴァン・グラハム・クラークで1862年のことであるから、グリオールはドゴン族の宇宙に関する知識は西洋のそれと同様に高度であると訴えた。加えて、神話は木星には四つの衛星があると言及し、また土星にリングがあることを言い当てていると紹介している。
だが、グリオールの訴えは受け入れられなかった。グリオールがドゴン族と接触する前の1920年代に宣教師がドゴン族と接触している事実と、その当時は三連星説が主流であったことから疑念をもたれる。
(略)
また、シリウスが登場する神話はドゴン族の小さな集団にしかなく、シリウスの連星に触れる神話はグリオールの取り上げたオゴトメリのものしかなかった。さらにシリウスの連星に触れる神話の存在が確認されたのは1946年以降の調査のみであることから、1920年代以降に西洋からもたらされたシリウスの連星の情報が神話に取り入れられた可能性が高いと考えられている。
(略)
(フリー百科事典ウィキペディア「ドゴン族の神話」より引用)

つまり、文字を持たないため「外来文化との接触によって得た比較的新しい知識を、古来からの伝承と混同してしまった」ということです。
バードがアイヌから聞いた義経伝説もこれと同様ではないでしょうか。寛永年間に起きたという「源義経北行伝説」ブームの波が蝦夷にも達し、たとえば元はオキクルミの話として伝わっていた伝説と融合し、「文明をもたらした者」義経の伝説が形成された。伝説形成の過程をたどろうとも文字の記録が残っていない。そこにつけこんで義経神社を建立し、義経伝説として確たるものにした……という。
ていうか私、アイヌ史は全くの門外漢で(当然といえば当然である)、アイヌ史研究家がここらへんの記述をどうとらえているのかがまず気になるところです。

アイヌ民族の歴史

アイヌ民族の歴史

先日、図書館でたまたま目にしたので、パラパラと源義経関連の記述や義経神社創建期のあたりをめくってみたのですが、義経神社は名前さえ出てきませんでした。675ページにおよぶ大書なのになー。