相沢次郎と「おサル電車」の謎

大宅文庫にて先日、『文藝春秋増刊 漫画読本昭和36年7月号に掲載されている記事、「ロボット博士と人はいう」と題された相沢次郎のエッセイを複写してきました。少年時代から「今」に至るまでを振り返る記事で、「玩具研究三十年・ロボット製作の第一人者が綴るその半生記」とタイトルに並んで書かれています。
羽田空港のロビーにロボットを持ち込もうとした際、「こんな大きいものを持込むのは違法だと拒否した場員に、実際に動かしてみせて、これも人間の一人だと、やっと納得させた」というエピソードや、田奈地区に建設予定の国立の児童遊園地「子供の国」(すなわち今日の「こどもの国」です)への言及なども興味深いのですが、最も注意を引いたのが「お猿の電車」についての話。

「お猿の電車」を考えついたのも、この夜中の研究室であった。終戦直後、猛獣を殆ど殺してしまって、「ブタ園」と悪口をたたかれていた上野動物園に、何か子供を喜ばせるものを、というので、林寿郎さんと相談して作り上げたものだ。
 機関車のハンドルを手前に引くと、車は走り出し、手をはなすと止まるといった簡単な装置を作り、林寿郎さんが猿を運転士に仕立て上げた。前方に砂糖をまぶしたリンゴを置いておく。猿は餌欲しさに必死になってハンドルを引いて機関車を動かす。毎日、朝七時前から訓練は始められたが、第一代目のミーちゃんという牝猿は、じきに運転技術を覚えてしまった。

ありゃ? ウィキペに書いてある話とずいぶん違うぞ? 「相沢が提供したロボット電車に猿が搭乗していた」わけではなく、「相沢は猿でも運転できる簡易な操縦システム付の電車を提供した」んじゃないの?
ウィキペもいろいろ信用できないからなー、とりあえずネタ元を当たってみるかと『なぜ、子どもたちは遊園地に行かなくなったのか?』を購入。

なぜ,子どもたちは遊園地に行かなくなったのか? (創成社新書 21)

なぜ,子どもたちは遊園地に行かなくなったのか? (創成社新書 21)

……もっと違っていた。なんだこりゃ。

(p150)
きっかけは、都立工芸高校の相沢次郎が持ち込んだロボット電車だった。相沢は、財団法人東京動物園協会を通して、上野動物園内に、ロボットが運転する子供向けの電車を走らせたいと申し込んできたのである。だが、上野動物園は遊園地ではない。園側としては、動物とは関わりのない遊戯施設であるロボット電車の持ち込みには反対だった。
そこで、当時の古賀忠道園長以下、もろもろ協議した末、動物が運転する電車ならば持ち込んでも良いという話となり、『おサル電車』が誕生したのである。のちに、『おサル電車』は、大阪万博などでロボット研究家として有名になる、この相沢次郎の発明といわれたが、正しくは、電車の部分は相沢でも、サルに運転させるという発案は動物園関係者によるものなのである。

(p153)
人気運転手であったチーちゃんも、生き物であるから、1日中、運転していたのでは疲れてしまうし、飽きてもくる。そこで、チーちゃんが何周かしたあとは、相沢が考案したロボットが電車を運転したのだが、これが故障続きで、終いには、ロボットでの運行は取り止め、その代わり、チーちゃんの休憩中は、駅舎に設置したコントローラーで電車を運転したという。

なんだか妙に相沢に対して攻撃的な調子なのも気になるが、それはさておいても疑問点が多い。
疑問1……「相沢が考案したロボットが電車を運転した」というが、当の相沢はそのロボットに全く言及していない。
疑問2……「ロボットでの運行は取り止め〜コントローラーで電車を運転した」というが、まさか当時のロボットが自律制御だったわけはあるまい。つまりどちらにしても駅舎で運転していたはずで、仮に「ロボットでの運行は取り止め」たにしても、「その代わり〜駅舎に設置したコントローラーで」というのは話がおかしい。
以下は私の憶測である。このくだり、関係者から取材した話ではなく、断片的な話でしかなかったのをライターが勝手な憶測でつなげたのではないか?
「チーちゃんも生き物だから疲れてくる」そして「休憩中は駅舎に設置したコントローラーで運転した」という話と、「相沢は当初ロボット電車を提案してきた」という話と、「電車は相沢が提供したものだった」そして「それは故障が多かった」という話をごっちゃにしているのではなかろうか……。
こうなると、さらに「源流」に近い記事が気になってくる。次に中央図書館に行くときには上野動物園の年史を当たってみよう。