「ゆめのかよいじ」感想、構成編(バレ)

昨日、12月7日でTジョイ新潟での『ゆめのかよいじ』上映が終わったので、区切りとしてストーリー構成についての話を上げてみる。

ちなみに今日、別件で上野公園に行ったら新潟県の観光イベントをやっていて、栃尾市のブースには「ゆめのかよいじ」のチラシも置かれてました。

ま、それはともかく。コホン、
どこぞの王様が「始まりから始めて、終わりまでいったらそこで終わるのだ」と仰せですが、およそ物語を扱うのなら、読むにも書くにも「一文に要約する」というのは有効なテクニックです。
 
映画『ゆめのかよいじ』の場合、最も簡潔には「田舎に越してきた主人公が・都会に帰るまでの話」ローディストはハシラの定番ネタを思い出すでしょうが、アレは実は真面目に使えるのでした。
 
そこに肉付けしていく。なぜ越してきた? どうして都会に帰った? 「精神を病んで・田舎に越してきた主人公が・自然や古い町並みに癒されて・都会に帰るまでの話」。なぜ精神を病んだ? それが原因ならどうして癒された? 「父の自殺によって・精神を病んで・田舎に越してきた主人公が・幽霊と出会い・自然や古い町並みに癒されて・幽霊との別れを経て・都会に帰るまでの話」……こんな感じ。肉付けは1〜3文ずつ、優先順位と対応関係を意識して行う。病んだら癒されるし、父が自殺したから幽霊と出会う、と。「え? 父親と幽霊の梨絵は無関係じゃないの?」はい、そのとおり。そこがこの映画の脚本の、最大の問題点です。ここの細かな分析はまた後日、改めて行います。たぶん。
 
さて、要約文の面白いところは、終わり方が違うと、同じであるはずの出だしも別物になる、という点です。原作も一応「田舎に越してきた主人公が・都会に帰るまでの話」ですが、最後にもう1エピソードある(角川版。少年画報社版は2話)。そのため、原作を一文に要約すると「田舎に越してきた主人公が・再び田舎を訪ねるまでの話」……って、これではわけがわかりません。要約文とはストーリーの単なる要約ではなく、物語の重点は何かを明らかにする一文ですから、「地の精に出会った主人公が・別の新しい地の精に出会うまでの話」となります。
 
原作のストーリーは、真理という個人を起点としつつ、「地の精」が象徴する「時間の積み重ね」とか「人の住まう土地」に向かっていくんだけど、映画はとにかく個人の問題に終始している。その差が、要約文を書くことで浮かび上がってきます。仮に映画の要約文を「主人公が男と出会って・別れるまでの話」としても、個人の問題に終始していることは変わりません。

だからダメだ、とは言いません。ただ、そういう内向き志向のために、「地図が描けていない」「地域性がおざなりになっている」という問題が生じている、とはいえるでしょう。……いいんですか? ご当地映画でこれって?
……しまった。とっかかりは「要約文を書いてみよう」だったけど、「構成」の話してないじゃんこれ。まぁいいか。



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